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- DOI: https://doi.org/10.15108/stih.00407
- 公開日: 2025.09.05
- 著者: 近藤 康久
- 雑誌情報: STI Horizon, Vol.11, No.3
- 発行者: 文部科学省科学技術・学術政策研究所 (NISTEP)
ほらいずん
グローバル・サイエンスに関するマスカット宣言を読む
2025年1月に国際会合「マスカット・グローバル・ナレッジ・ダイアログ」において、「グローバル・サイエンスに関するマスカット宣言」が発出された。本宣言は、科学が国境を越えたグローバルな公共財であるという立場を明示した上で、研究力と教育の質の国・地域間格差や、AI等の新興技術により急速な変化を遂げる科学の状況を認識しつつ、科学が社会正義・平和・安全保障・持続可能性の推進に主要な役割を担うことを強調した。その上で、行動宣言として、自由で責任ある科学実践の擁護・促進と、地球規模課題に対する国際的・学際的・超学際的共同研究の奨励・支持、科学システムの公正な進化への貢献を提言した。また、オープンサイエンスは、自由で開かれた知識の共有という文言により表現された。結びでは、2020年代の世界における科学が、分断を乗り越えて信頼を育む、地球環境問題に集合的に取り組むためのポジティブな推進力であるという考え方が発信された。
キーワード:科学技術政策,科学技術外交,社会正義,平和,グローバルな公共財としての科学
1. はじめに
2025年1月29日から30日にかけて、オマーン国の首都マスカットにて、国際学術会議(International Science Council:ISC)の第3回総会が開催された。これに先立つ3日間、同じ会場で科学と社会、科学と政策の接点における重要課題の検討を目的とする国際会合「マスカット・グローバル・ナレッジ・ダイアログ」が催され、その締めくくりに「グローバル・サイエンスに関するマスカット宣言」(The Muscat Declaration on Global Science)が発出された1)。以下に、宣言全文の日本語訳を示す。
2. グローバル・サイエンスに関するマスカット宣言
2025年1月26日~30日
オマーン、マスカット
マスカット・グローバル・ナレッジ・ダイアログ及び国際学術会議第3回総会において
前文
グローバル・ナレッジ・ダイアログは、科学と社会ならびに科学と政策の接点にある重要課題を定期的に検討することを目的として、国際学術会議(ISC)が主導するイニシアチブである。今回は、ISCとオマーン国高等教育・研究・イノベーション省の共催により開催された。
ISCのグローバル会員組織は、250の国際的な科学連合や学協会、各国・地域の科学機関(アカデミー、政府機関・省庁、研究・科学評議会、国際科学連盟・団体、若手科学者組織など)を統合している。
[想起]ISCは「科学はグローバルな公共財である」というビジョンを持つことを思い起こす必要がある。これは、科学的知識とその実践は広く万人に益する共有資源と見なすべきであることを意味する。
[再認]科学における志や課題、機会、アプローチは世界的に見て多様であることと、国・地域間における研究力と教育の質の格差が拡大していること、及びグローバルな進歩をうながすためにこれらの格差の是正が必要であることを認める必要がある。
[想起]ISCは上記のビジョンを実現するために、強固で効果的かつ信頼性のあるグローバルな声を科学に与えることをミッションとしていることを思い起こす必要がある。
[考慮]科学実践を取り巻くグローバルな状況は過去10年間で大きく変化したことと、新興技術により科学研究のパラダイムが更に変化しつつあることを考慮する必要がある。
[確認]このような文脈のもと、科学が社会正義・平和・安全保障・持続可能性の推進に主要な役割を果たすことを確認する必要がある。
[考慮]科学者たちの声とその多様性を高め、科学者たちの自由と安全を前進させ、科学に参加し科学から受益する権利を擁護するという、ISCの役割を考慮する必要がある。
行動宣言
以上を踏まえ、マスカット・グローバル・ナレッジ・ダイアログの参加者一同は:
[擁護・促進]次の各項により、自由で責任ある科学実践を擁護・促進する。
- 科学に参加し科学から受益する権利を前進させること、より広い意味では、グローバルな公共財としての科学の役割を支持すること。
- 緊張と危機の時代に境界を越えた科学的協働を維持すること。
- 緊急事態や紛争下にある科学のエコシステム及び科学者、特に避難を余儀なくされた科学者の保護を支持すること。
- 自由で安全かつ倫理的、包摂的で、説明責任があり公正な科学の実践を支持すること。
[奨励・支持]次の各項を含め、地球規模の課題に関する国際的・学際的・超学際的共同研究を奨励・支持する。
- 持続可能な開発のための国連国際科学の10年を、持続可能性アジェンダを進める手段として積極的に支持すること。
- 国際極年2032-33及び国連氷圏科学の10年に向けた動員を行うこと。
- 複雑な課題に対処するために、必要に応じて、自然科学、医学、社会科学、人文学、工学などあらゆる基礎・応用科学を総合するホリスティック・アプローチを採用すること。
- 科学が効果的な役割を果たしうる様々な隔たりを含め、不平等や社会的結束に関する研究を奨励すること。
- 世界の資金提供機関、慈善団体、主要な科学機関に対し、リソースが不足する地域における能力開発イニシアチブへの投資支援を求めること。
- 汚染の防止ないし削減とゼロエミッション実現に向けた実践的解決策を共同開発すること。
[貢献]次の各項を含め、新興技術と世界的不平等の双方を勘案し、科学システムの公正な進化に貢献する。
- 例えばオープンサイエンス、研究評価、学術出版などにおける科学システムの変化と改革、及び透明性・効率性・包摂性・誠実性の向上に向けて、科学研究にかかる資金提供者、政策決定者等ステークホルダーに専門的助言を提供すること。
- 緊急かつ複雑な社会的・環境的課題に対処するために必要な超学際的知識・ツール・スキルを将来の研究者に身につけてもらえるように、高等教育機関の変革を推進すること。
- 人工知能をはじめとする新興技術が科学と教育システムの諸側面に及ぼす潜在的影響を批判的に評価すること。
- 科学データの生成・保存・管理・アクセスを、分野横断的な大きなチャレンジをうながすような様態で行うこと。
- 若手科学者のアカデミーや協会を支援すること。
[継続]科学の価値を擁護し続け、かつあらゆるレベルにおけるエビデンスに基づく理解と意思決定を促進し続ける。
[推進]多国間体制における科学の役割を強化するための能力開発、適切なトレーニング、原則とモデルの採用を推進する。
[促進・支援]公共の利益を促進し地球規模課題に対応するために、科学技術外交の活用を促進・支援する。
[擁護]国際科学プログラムと自由で開かれた知識共有への投資を拡大し維持するための擁護を行う。
[奨励]世界平和と人類の福利、地球への奉仕、世界の持続可能性にかかる諸目標の達成に向けた学術研究とイノベーションへの貢献を奨励する。
[強調]学術組織のガバナンスと科学の営み全般において、女性科学者や少数派の代表性を向上させることの重要性を繰り返し強調する。
[結語]科学は、分断を乗り越え、信頼を育むとともに、さまざまなレベルにおいて共有された地球規模課題に対する集団的行動を触発するポジティブな力となり得る普遍的な営みであることをもって、結語とする。
3. 解説
社会における科学の役割に関する国際宣言は、1999年に「社会の中の科学、社会のための科学」という概念を盛り込んだ「科学と科学的知識の利用に関する世界宣言」(ブダペスト宣言)2)が出されて以来、度々発出され、国際学術政策の形成に影響を与えてきた3)。2022年12月に南アフリカ共和国ケープタウン市で開催された第10回世界科学フォーラムは、社会正義のための科学をテーマに掲げており、閉会時に採択された宣言文においても、このテーマに沿って、「人間の尊厳のための科学」「気候正義のための科学」「アフリカと世界のための科学」「外交のための科学」という四本柱が提示された。グローバル・サウスを視野に入れた科学の発展を強調した宣言であった。
今回発出されたマスカット宣言は、このような潮流を踏まえた上で、科学がグローバルな公共財である(science as a global public good)というISCのビジョンを確認するところから出発する。このビジョンは、ISCの理事を務めるジェフリー・ブルトン(Geoffrey Boulton)によって、2021年以来繰り返し表明されており4~6)、本宣言の思想的基礎をなす。
本宣言は前文(Preamble)、行動宣言(Actionable Statements)、そして結語の三部から構成された。前文では科学がグローバルな公共財であるというISCのビジョンを確認した上で、ロシアによるウクライナ侵攻及びイスラエルによるガザ地区侵攻などの武力による現状変更や、世界の覇権をめぐる米中の独自路線化を言外に想起させる形で、科学実践を取り巻くグローバルな状況が大きく変化していることと、人工知能(AI)の急速な発展や新興感染症への対処を通じて、科学研究のパラダイムが変化しつつあることを、現状認識として提示した。その上で、社会正義・平和・安全保障・持続可能性の実現に科学が主要な役割を果たすべきことを強調し、研究資源の南北格差やジェンダー格差を意識させつつ、研究力と教育の質の格差是正を問題提起した。
具体的な行動宣言においては、行動に移せる(actionable)というニュアンスが強調された。災害などの緊急事態や紛争下においても科学活動と科学者を擁護することや、自由で安全かつ包摂的で公正な科学の実践を提言した。格差是正のための投資の拡大も呼びかけられる。また、研究アプローチにおいては、複雑で解決困難な地球規模課題に対処するため、あらゆる分野の知を全体的に包括して捉えるホリスティック・アプローチ(holistic approach)を推奨した。これは、我が国の科学技術政策にいうところの「総合知」7)に近しい概念である。
さらに、ホリスティック・アプローチをとるための国際・学際・超学際的共同研究を奨励するとともに、高等教育への実装も提言した。我が国では、学術分野間や学術と社会の垣根を超えた協働により現実世界の課題に取り組む超学際(トランスディシプリナリー)アプローチの教育は、東京科学大学環境・社会理工学院融合理工学系(2016年発足)、名古屋大学卓越大学院プログラム「ライフスタイル革命のための超学際移動イノベーション人材養成学位プログラム」(2020年発足)、京都大学大学院人間・環境学研究科学術越境センター(2023年発足)、総合研究大学院大学先端学術院総合地球環境学コース(2023年発足)などで端緒についたばかりであり、今後の政策的支援による拡充が求められるところである。
なお本宣言において、オープンサイエンスの概念は、科学システムを構成する「自由で開かれた知識の共有」(free and open knowledge sharing)という文言によって表現された。その上で、科学データの共有を、分野横断的な大きなチャレンジをうながすという文脈のもとで奨励した。
結語においては、科学の価値を擁護すること、科学がエビデンスに基づく意思決定(evidence-based decision making)に寄与すること、そして能力開発(capacity building)と科学技術外交の重要性を説くとともに、世界平和と人類の福利(human well-being)、地球への奉仕(planetary stewardship)、世界の持続可能性(global sustainability)を学術研究とイノベーションの目標(ゴール)として明示した。米国では、近年の政治的環境の変化に伴い、学術界における女性やマイノリティーの支援に関する政策的方向性に揺らぎが見られ、多様性の確保に向けた取り組みの将来性について注視が必要とされている。そのため、結果論ではあるが本宣言にこの論点が盛り込まれたことは有意義であったといえよう。
4. 結びにかえて
本宣言の結語では、2020年代の世界における科学が、真理の探究にとどまらず、世界の分断を乗り越えて信頼を育み、地球規模課題に「みんな」で取り組み、世界を変革する原動力であることを発信した。このことは、VUCA8)すなわち変動性(volatility)・不確実性(uncertainty)・複雑性(complexity)・曖昧性(ambiguity)の増大する現代において、科学が世界の行く先を指し照らす「飛行石」の役割を担うことを意味する。その上で、グローバルな公共財としての科学の位置付けや、ジョン・ロールズに始まる正義論9)に基づく格差の是正など、科学機関と科学者の行動規範を示すものである。
しかるに、グローバルな総論としては合意できても、国益や国際競争力を気にする国家レベルや、ランキングを気にする大学レベル、研究業績や評価を気にする研究組織・個人レベルの各論において、本宣言の思想が規範として受容されるには、相応の時間を要することも想定される。そのような懸念があるにせよ、本宣言の思想が、2020年代に生きる科学人にとっての規範的教養として、定着することを期待している。
謝辞
本稿は著者個人の見解に基づく。宣言文の日本語訳に当たっては、本誌2巻4号所収の研究計量に関するライデン声明10)を参考にした。訳文はChatGPT-4oを用いて下訳した上で、著者が全文を校訂した。結びの考察に当たっては、NISTEP赤池伸一総務研究官より着想を賜った。また原稿チェックに当たり、担当者より超学際教育の国内事例について教示を賜った。記して感謝申し上げる。
* 総合地球環境学研究所 教授
参考文献・資料
1) International Science Council (2025) The Muscat Declaration on Global Science.
https://council.science/news/muscat-declaration/(2025年6月14日アクセス)
2) 学術の動向編集委員会(2019)資料 科学と科学的知識の利用に関する世界宣言(ブダペスト宣言).学術の動向24(1): 62-67.https://doi.org/10.5363/tits.24.1_62
3) 佐藤禎一(2019)ブダペスト宣言の成立とその後の動き.学術の動向24(1): 36-41.
https://doi.org/10.5363/tits.24.1_36
4) Boulton, Geoffrey S. (2021) Science as a Global Public Good. International Science Council Position Paper.
https://council.science/wp-content/uploads/2020/06/ScienceAsAPublicGood-FINAL.pdf
(2025年6月17日アクセス)
5) Boulton, Geoffrey S. (2022) Science as a global public good: the roles of the representative bodies of science―a perspective. Proceedings of the Indian National Science Academy 88: 832-841.
https://doi.org/10.1007/s43538-022-00125-x
6) Boulton, Geoffrey S. (2025) Science as a global public good: A necessary responsibility for science. In: Truth Unveiled: Navigating Science and Society in an Era of Doubt. Fundamentals in Physiology. Academic Press, pp. 3-19.https://doi.org/10.1016/B978-0-443-23655-6.00001-0
7) 内閣府(2022)「総合知」の基本的考え方及び戦略的に推進する方策.
https://www8.cao.go.jp/cstp/sogochi/kihon.html(2025年6月17日アクセス)
8) Taskan, Burcu, Ana Junça-Silva, António Caetano (2022) Clarifying the conceptual map of VUCA: a systematic review. International Journal of Organizational Analysis 30(7): 196-217.
https://doi.org/10.1108/IJOA-02-2022-3136
9) Rawls, John B. (1971=1999) A Theory of Justice. Revised ed. Harvard University Press(川本隆志・福間聡・神島裕子訳,2010『正義論』新訳版,紀伊國屋書店).
10) 小野寺夏生・伊神正貫(2016)研究計量に関するライデン声明について.STI Horizon 2(4): 35-39.
http://doi.org/10.15108/stih.00050