STI Hz Vol.9, No.4, Part.7:(ほらいずん)大学と民間企業による研究開発育成を含めた研究開発推進の実態事例-現場の現実に立ち位置を置いた工学系領域の研究開発分野別分析-STI Horizon

  • PDF:PDF版をダウンロード
  • DOI: https://doi.org/10.15108/stih.00354
  • 公開日: 2023.12.20
  • 著者: 塩谷 景一
  • 雑誌情報: STI Horizon, Vol.9, No.4
  • 発行者: 文部科学省科学技術・学術政策研究所 (NISTEP)

ほらいずん
大学と民間企業による研究開発育成を含めた
研究開発推進の実態事例
-現場の現実に立ち位置を置いた工学系領域の
研究開発分野別分析-

第2研究グループ 客員研究官 塩谷 景一

概 要

「大学と民間企業による研究開発者育成も含めた研究開発推進」を対象に、研究開発分野ごとの特徴のある実態を例示し分析する。それらは、種々な研究開発分野を混在させた包括的な統計調査結果の分析からは見えにくいものである。研究開発分野として、大学の工学系領域における化学分野と機械・電機分野を取り上げる。両分野における民間企業と大学が連携した研究開発の状況のうち、例えば、博士課程修了者の育成・活用等において、両分野間で様相が大きく異なる。包括的な調査では、この大きな違いは中和されて、分析には表れにくいといえる。

本稿は、研究分野ごとの実態事例を軸とし、統計調査等を引用し、全体及び研究分野間での研究開発動向の差異を分析している。具体的には、NISTEPの「民間企業の研究活動に関する調査報告」の結果を用いた。当該調査は民間企業の研究開発に関わる統計調査として、全業種を母集団とする包括的なデータに加えて、業種別のデータも継続的に収集し開示されており種々の分析が可能である。

キーワード:民間企業の研究開発,研究開発者育成,博士課程,社会人博士,研究開発モデル

1. 大学と民間企業による研究開発推進現場の現実に立ち位置を置いた分析について

日本の研究開発推進の状況を把握する上では、研究開発を対象とした種々な政府の統計等調査結果を参考にできる。特に、継続的に何年も実施されている調査は、年度ごとの状況変化を捉えられる。こうした調査結果の活用を例示すると、次のようなものが挙げられる。例えば、研究開発実践組織では、研究開発状況の変化をもたらした要因の考察が研究開発推進戦略を再考するトリガーとなる場合もあり得る。民間企業等の研究開発管理者は、調査結果に示された自社外部の全体的な研究開発状況を自社の内部状況と比較し、相違点があればその理由を考察し、組織運営の自己点検として調査結果を活かす場合もあると言える。例えば、産学官連携という他セクターと研究開発を推進する上での課題等の検討では、自社外部の状況把握は必要であり、調査結果は参考になると言える。

一方、こうした統計等調査は包括的なものが多く、その場合、調査対象全体における傾向のみが示されていることが多い。しかし、調査対象を研究開発分野等で細分化すると、各種の結果について分野間で異なる傾向を示す可能性も想定でき、それらは全体傾向として合算され、中和された結果からは推測が難しい。つまり、全体についての分析結果と、個々の研究開発分野の実態とが異なる場合もあり得る。実際に本稿において分析した範囲でも、例えば、大学の工学系領域における化学分野と機械・電機分野において、また産業界の化学系業種と機械系業種において、両者間で大きく異なる研究開発推進状況が見られた。詳細は4章に示すが、例えば、博士課程修了者の民間企業の採用に関して、包括的な調査では民間企業は積極的ではないとの結果もみられる。しかし、業種を特定した実態では、化学系業種の民間企業は工学系化学専攻の博士課程修了者の採用に比較的前向きである。ここ数年、民間企業からの博士課程修了者への採用募集数が継続的に増加している大学がある。一方、それらの大学において、工学系機械専攻の博士課程修了者に対しては、機械系業種の民間企業からの採用募集数は少ない状況も見られる。

そこで、本稿では、民間企業の研究開発に関わる政府統計調査の中で、包括的なデータと合わせて業種別のデータも継続的に収集し開示している、NISTEPの「民間企業の研究活動に関する調査報告」(以下「民研」と略称を使う)の結果を分析に用いる。「大学と民間企業による研究開発者育成も含めた研究開発推進」を対象として取り上げ、研究開発分野を特定した分析を行い、包括的な分析では見えにくい民間企業の研究開発現場における現実をおさえた実態事例を示す。

なお、本稿での「現場」、「現実」の用語は、特に製造業が職務遂行の考え方として重要視している、「3現主義」の3現を構成する現場・現物・現実に基づいている。「現物」は本稿では「実態」の用語を使う。3現主義は、机上ではなく、実際に「現場」で「現物(実態)」を観察して、「現実」を認識した上で、問題の解決を図る考え方である。製造業に限らず民間企業では、管理職が職務を遂行する上でのキーワードの一つと言われる。

2. 民間企業の業種と研究分野ごとの実態に根ざした特徴と統計データとの分析事例

2.1 博士課程修了者を採用しない理由(包括的データ)

業種ごとの分析は、2.2節で示し、本節ではまず包括的なデータを分析する。

図表1は、2021年度版民研データの「博士課程修了者を研究者として採用しない理由」の調査結果である。ここでは、「自社と博士課程修了者のマッチングがうまくいかなかったため」の回答割合(52.6%)が最も大きく、これについては政府の審議会等でも引用されている。それを除くと、

  • ア)特定分野の専門知識を持つが、企業ではすぐに活用できないから
  • イ)企業内での教育訓練によって社内研究者の能力を高める方が、博士課程修了者を採用するよりも効果的だから

との回答が多い。一方、2012年の調査でも、「博士課程修了者を研究者として採用しない理由」についての調査が行われていたが、その際には、マッチングについての調査項目はなく、ア)が57.2%、イ)が58%で、上位2項目は2021年調査と同じである。ア)とイ)についての現場の現実視点での解釈を次に示す。

ア)は、民間企業が重点設定する技術課題の研究開発推進で、即戦力となる博士課程修了者が見当たらなく、採用に至らない点を理由としたとの見方ができる。この場合、博士課程修了者の研究者としての能力は評価しているとの想定はできる。しかし、イ)の場合には、民間企業は、大学より適切な博士レベルの研究者育成が可能であるとの回答とも理解できる。つまり、博士課程修了者の民間企業内での研究開発推進能力に対する課題を指摘しているとの見方ができる。しかし、この回答を民間企業の研究開発現場が示すに至った背景には複雑な要因があると推察され、データの読み取りに際しては、それらの要因や関係性を丁寧に押さえる必要がある。前述の統計値のみをもって、「大学の博士課程教育に課題あり」と解釈する例も見受けられるが、正しいとはいえないとの見方ができる。実際に研究開発分野で状況は異なり、次の2.2節で分析例を示す。

図表1 研究者として博士課程修了者を採用していない理由 民研2021図表1 研究者として博士課程修了者を採用していない理由 民研2021

2.2 業種ごとのデータによる博士課程修了者・博士学位の位置づけ

1章の本稿導入部でも触れたように、化学系業種と機械系業種では博士課程修了者への見方が異なる。図表2は、2021民研調査データとケーススタディとを連動した分析として、NISTEPセミナーにおいてNISTEPの第2研究グループが説明を行った図表である。この図表は、博士課程修了者の採用と博士号取得の支援に対する民間企業の業種別、また、大学の工学研究科における専攻別の相違がデータとして表れている。

図表2によれば、化学系業種は、相対的に博士課程修了者採用に前向きであるが、機械系業種、及び電機系業種(これらは、ディスクリート産業と総称される)は、それほど前向きではない。一方、特に電機系業種は、社会人博士による博士号取得を他の業種より前向きに支援している。電機系業種では、まずは、民間企業内で研究開発者の教育訓練を行い、その後に必要に応じて博士の学位取得を支援しているとの見方ができる。

図表1の「イ)企業内での教育訓練によって社内研究者の能力を高める方が、博士課程修了者を採用するよりも効果的だから」という結果は、図表2における機械系業種、電機系業種の状況と符合する。他方、化学系業種では図表1の結果と傾向が必ずしも符合するとは言えず、機械系業種、及び電機系業種よりも、大学の博士課程教育に期待する部分が高いと推察できる結果を示している。

このように、業種・研究開発分野によって、状況が大きく違う。この真の状況は、「現場の現実に立ち位置を置いた分析」で見えてくる部分があり、4章で、解説する。

図表2 博士の採用か、入社後の博士号取得の支援か図表2 博士の採用か、入社後の博士号取得の支援か

3. 調査の方法:現場の現実に立ち位置を置いた分析について

本章では、異なるセクターでの調査において、実態を押さえた分析を行うために考慮すべき点と一つの方法を説明する。

〇実務経験のない他セクターでの調査

産官学の各セクターの調査担当者が、所属セクター外でヒヤリング等の調査を行う場合に、考慮すべき点について考える。業種や研究開発分野等による違いはあるがセクター内では、組織目標、あるいは組織運営の価値基準や問題意識等では共通するものがある。それらは、セクター間では異なる。例えば、民間企業の経営ビジョンに基づく研究開発戦略・企画は、大学における研究取り組み方針とは異なる。また、研究開発用語の定義、特に基礎研究の位置づけは異なる場合が多い。そのため、異なるセクター間での調査では、調査担当者の意図・背景等を調査対象者が精緻に理解できない、あるいは、取り違えている場合がある。これらの要因のため、実務経験のない所属セクター外での調査は容易ではないと言える。

例えば、調査担当者は、調査対象である所属セクター外の状況を概ね把握していたとしても、そこでの業務を経験したことがない場合には、「現場の現実を明らかにする精緻な情報」が得られるように調査を構成すること、例えば調査対象者から適切な説明を引き出せるような問いかけを行うことは容易ではないと言える。この場合、経験に基づく具体的な質問も難しく、さらに調査対象者から提示される説明についても「伝言ゲーム」のように正確には理解しにくいとの見方ができる。つまり所属セクター外の分析者は、実態分析を精緻に行うために必要な「研究開発現場の本質的な情報」に切り込むことは、通常難しい。したがって、本質的課題は調査対象組織が自発的に提示しなければ、明らかにされにくいとも言えよう。

〇調査において、どの職位/組織に話を聞くか

調査では、調査対象者の所属や職位の選定は重要である。官学セクターの調査担当者による民間企業(産)への調査での事例を示す。

民間企業に公式に調査を打診すると、窓口は渉外部門の官公庁担当者が対応する場合がある。提供される資料等は渉外用に用意されたもので、説明は当たり障りのない範囲となり、概要は分かるが本質課題に切り込むところまで至らない場合は少なくないと言える。

民間企業における研究開発経営の考え方等を調査することを意図して、打診しやすい視点から官学セクターの調査担当者が、民間企業が大学に設置した共同研究講座等の組織を取りまとめる民間企業担当者に接触する場合がある。その担当者は、研究開発部門現場の課長級が担っている場合が少なくない。その場合、研究開発の実務や管理方法の実態は把握できるが、会社としての研究開発経営の考え方を正確に把握することは難しいと言える。つまり、研究開発部門現場の課長級へのヒヤリング結果のみを持って、その所属企業の研究開発経営の実態と課題として情報をまとめるのは正しくないと言える。この問題を回避して適切な回答を得るためには、研究開発経営の本質と現状課題を正確に把握する本社の研究開発企画部門の上級管理職、少なくとも研究所の企画部門長級との意見交換が必要となる。他の例では、博士課程の学生採用の実態調査では、調査対象者として研究開発部門現場の部長級が適切な場合が多いと言える。

このように、調査項目により、調査を行う部門や調査対象者の役職は異なり、その選定に十分な留意が必要である。ここで示した例は日本を代表する大企業への調査では概ね該当すると言えるが、民間企業によって、特定の職責を担う部門や役職は異なるので、その事前確認が望ましい。

〇3件のディスカッションペーパの調査方法

文献1)~3)には、各報告書で用いた、現場の現実に立ち位置を置いた分析の一方法を記載している。文献1)~3)の調査担当者は産官学での業務経験があることから、分析の基本的な方針としては、自らを調査対象者とし、大学と民間企業での業務実践を通して得られた内容を事例として整理している。その整理された事例に関わる大学教授・民間企業上級管理職に事例を提示し、より実態に合う事例に近づける検討を行っている。合わせて客員研究官としてNISTEP第2研究グループを中心に内容を点検している。その結果が、図表3~図表6であり、これらは文献1)からの引用である。

図表3(A)研究開発モデル(純粋基礎研究から応用研究段階):機械・電機分野図表3(A)研究開発モデル(純粋基礎研究から応用研究段階):機械・電機分野

図表3(B)研究開発モデル(指向型基礎研究から開発研究段階):機械・電機分野図表3(B)研究開発モデル(指向型基礎研究から開発研究段階):機械・電機分野

図表4 研究開発モデル:化学分野図表4 研究開発モデル:化学分野

図表5 大学と民間企業連携による研究開発者育成接続プログラム:機械・電機分野図表5 大学と民間企業連携による研究開発者育成接続プログラム:機械・電機分野

図表6 大学と民間企業連携による研究開発者育成接続プログラム:化学分野図表6 大学と民間企業連携による研究開発者育成接続プログラム:化学分野

4. 大学と民間企業の取り組みを接続させた研究開発と研究開発人材育成

本章では、2章の図表1、図表2で示した民研の調査結果について、実態事例を示しその現場の現実の立ち位置から分析する。

博士課程修了者がその能力を()かして、どのように民間企業で活躍できるかを理解するためには、民間企業内の研究開発管理職に至るまでの研究開発者育成プロセスにおいて、各段階で必要とされる能力を理解する必要がある。研究開発者に必要な能力は、民間企業内の研究開発モデルと密接な関係がある。研究開発モデルは、研究開発分野により異なるため、機械・電機分野、化学分野に分けての検討が必要である。本章では、上記から大学と民間企業が取り組みを接続させた研究開発モデルの事例を示し、研究開発人材育成の事例を説明する。なお、土木・建築・都市計画分野は2章で示した民研データの範囲外であり、本稿では取り上げていないが、文献1)2)に事例を記載しており参照いただきたい。

(注意1)研究開発段階の用語等は、総務省統計局の定義を基本とし、OECDのFrascati Manual 2015が示すものに基づき、基礎研究を純粋基礎研究(pure basic research)と指向型基礎研究(Oriented basic research)に分けた。

(注意2)化学系業種では、化学工業と呼ばれるプラントの設計・建設は、化学分野より機械分野の技術が中心となるので、本稿での化学系業種の分析からは除外している。

4.1 研究開発モデル
(1)純粋基礎研究

〇機械・電機分野

図表3(A)に示すように、民間企業は純粋基礎研究段階では、大学との共同研究開発は実施しない事例が少なくないと言える。その取り組みは、世界の主要な大学等研究開発機関と交流することで、10年先以降も視野に自社の事業に大きな技術的インパクトを与える可能性のある研究開発動向を把握する取り組みに限定した活動となると言える。その理由は、機械・電機分野の大学等の純粋基礎研究は理論研究用の比較的「単純化されたモデル」を用いており、そのままでは、機械系業種、及び電機系業種の民間企業の研究開発で用いる「複雑・複合モデル」と大きく違うため、基本的な研究開発仕様を満たさず民間企業の研究開発につながらない場合が少なくないためである。

〇化学分野

図表4に示すように、大学の純粋基礎研究で新たに確立された「化学反応式」等は、民間企業の開発研究で用いる「化学反応式」等の研究開発取り組みに、多くの場合直接つながり活かされる。つまり、研究開発で用いるモデルは機械・電機分野と違い、大学と民間企業でほぼ同じである。そのため、民間企業において、大学の純粋基礎研究の取り組み段階から連携し、自社研究開発システム内に大学を位置づける事例は少なくない。

(2)指向型基礎研究から開発研究段階

〇機械・電機分野

図表3(B)に示すように、民間企業内に研究開発段階に対応して研究開発部門が設置されており、部門間で密接に連携した取り組みを行っている。大学の明確な組織的位置づけはないが、特定の研究開発分野で体系的な深い知識を持つ大学の個々の教員に対して、民間企業がその知識を裏付けとする技術開発やフィールドで生じる問題解決で連携する事例は少なくない。

機械・電機分野の民間企業が事業化の対象とする製品は、通常、設計仕様に記載される諸元は多種多様であり、その設計を支える技術も多岐にわたる。製品試作結果が仕様に記載された諸元を満たすかを検証する実験設備は、その製品専用に製作される場合もある。さらに、民間企業では、製品が量産される場合には、量産対応の製造条件を検証する設備も準備される。大学が民間企業の保有しているような特殊な汎用性のない高価な実験用の専用研究開発設備を保有することは難しいといえる。また、大学が指向型基礎研究段階まで取り組んだとしても、その成果を、(1)項で述べたように民間企業の「複雑・複合モデル」を用いる応用研究へつなげるに際してのギャップは通常大きい。これらが、研究開発モデルの中に大学の位置づけがない事例の理由である。

〇化学分野

純粋基礎研究段階でのフラスコ実験で見いだされた材料合成の化学反応式等の成果は、開発研究段階での、プラントでの量産に必要な技術確立に必要な種々の課題解決に、本質的な指針を与えると言われる。そのため、化学分野での民間企業における開発研究では、例えば、大学の研究成果である化学反応式はそのまま使い、化学反応に必要な触媒の選択をコストの評価基準から別の物に変える取り組みが行われる。この場合も、大学での研究が明確にした触媒の仕様に基づき触媒の探索が行われる。この現場の現実から、大学における純粋基礎研究・指向型基礎研究と民間企業の研究開発の接続性が良い事例は少なくない。

(参考)

「Engines of Innovation」 (Edited by Richard S. Rosenbloom, W. J. Spencer; Harvard Business School Press; 1996/5/1) では、化学分野の分析として下記が示されている。

Nathan Rosenberg, Richard R. Nelson「多くの産業によって重要と評価された大学の研究の多くは、応用科学や工学 (applied science or engineering field) に関するものであり、基礎科学 (basic science) の大学の研究が評価されるのは少ない。化学は例外。ノーベル化学賞を受賞するような研究が化学会社の生産性向上に貢献できる。」

(3)研究開発活動で重要な研究開発設備の状況

〇機械・電機分野

大学の研究設備と民間企業の研究開発設備は、(2)項で解説したように大きく異なる。そのため、大学の教員は、民間企業の研究開発部門を見学すると、研究開発設備に関心を持つと言える。大学と民間企業が連携した研究開発では、双方が所有する実験設備等の研究開発設備の相違が研究開発結果の相互活用上の課題となる事例は少なくない。

〇化学分野

大学の研究設備と民間企業の研究開発設備は、ほぼ同じと言える場合が多い。よって、大学の教員からは、民間企業の研究開発部門を見学しても、それほど興味をひく実験設備等の研究開発設備は見られない、との意見がある。大学と民間企業が連携した研究開発では、大学における研究開発結果を民間企業の研究開発へ展開するに際して、研究開発設備の違いによる再取り組みが必要な部分を最小限とできる事例は少なくない。

4.2 大学と民間企業連携による研究開発者育成接続プログラム

4.1節に示した研究開発モデルに基づき、機械・電機分野は図表5、化学分野は図表6に大学と民間企業連携による研究開発者育成接続プログラムの事例を示す。特に、民研の調査結果である図表1で回答数の多い、「イ)企業内での教育訓練によって社内研究者の能力を高める方が、博士課程修了者を採用するよりも効果的だから」に関わる現場の現実の実態事例を以下に示す。

〇機械・電機分野

期間B 25歳-27歳と期間C 28歳-30歳の民間企業において研究開発者が身に付けるべき研究開発遂行方法は、修士課程修了後に民間企業の研究開発部門でのOJTによる実践により育成できる。しかし、大学ではその育成は容易ではないと言える。民間企業における人材育成が効果的であるとの見方ができる。

4.1節でも分析したように、民間企業が研究開発する実際の製品は数多くの部品で構成される。それらを実現する技術は複雑で、多種多様な仕様を満たすかどうかの多くの検討が行われる。理論検証が中心となる大学での実験は単純化されるが、民間企業の実験は、技術が多種多様な仕様を満たすかを実用化基準で評価するため、複雑で大掛かりな実験となる場合が多いと言える。博士課程で学生が大学において使用する研究開発設備は、民間企業のそれらと比較すると比較的単純なものであり、大学において身に付けた研究開発設備を駆使した研究開発遂行方法は、民間企業では活かしにくい場合は少なくない。

図表1の「イ)企業内での教育訓練によって社内研究者の能力を高める方が、博士課程修了者を採用するよりも効果的だから」という回答の一つの理由と考えることができる。

〇化学分野

化学分野では、修士課程から博士課程へ進学する学生は、工学系の他の分野と比較して多い。民間企業が、博士課程修了者の採用に関して比較的前向きな場合も少なくない。図表4の研究開発モデルで示したように、化学反応の新しい知見、及び化学反応にかかわる多様な研究開発に取り組んでいる博士課程修了者の研究開発能力と経験に対しては、民間企業の期待は高いと言える。民間企業の学生採用では、博士課程3年間で身に付けた能力と経験を入社後直接活かせると評価されている場合も少なくない。4.1節(3)項で述べたように大学と民間企業の研究開発設備はほぼ同等であり、博士課程修了者が大学において身に付けた、研究開発設備を駆使した研究開発遂行方法を、民間企業の研究開発業務に活かせることもその理由の一つと推察される。

上記から、化学分野では民間企業の研究開発者育成プロセスと博士課程での3年間のプロセスとの接続は良いと言える。一方、民間企業は博士課程修了者の採用に重点を置くため、社会人博士への派遣に関しては、工学系の他の分野と比較して少ないと言える。

(関連事項)社会人博士と論文博士に関して

民間企業が業務に直接位置づけて派遣する場合の社会人博士は、業務遂行に適切な人材の社内選抜となり、結果的に派遣者数は多くはない。論文博士は、自己啓発的な位置づけもあり、博士号取得の意志を持つ個人は全員、取得へ向けて取り組むことができ、社会人博士のような選抜はない場合が多い。一方、所属企業とは独立に個人で社会人博士に取り組む場合もある。この場合、通常、会社への届出は行うが勤務扱いとはならず学費や大学への旅費は個人負担となる場合が多い。さらに、大学での研究時間も個人の時間としての位置づけとなるため、会社での勤務との両立は容易ではなく、個人の負担が大きい場合がある。

5. まとめ

本稿で事例として取り上げた、博士課程修了者の民間企業での活用や、大学での博士教育に関しては、包括的な調査結果に基づいて種々の問題提起が行われている。一方、本稿で事例を示したように、研究開発分野を限定し、個別に現場の現実の分析を行うと、それらの問題の違う様相が見えてくる。研究開発分野によって問題の様相は大きく異なり、内容によっては真逆の場合もある。

具体的には、本稿で例示したように、民間企業において、化学分野は修士課程から進学した博士課程修了者の採用に比較的前向きである。機械・電機分野では修士課程から直接博士課程へ進んだ学生の採用は積極的とは言えない。機械・電機分野では25歳から30歳の研究開発者としての入り口の時期に必要となり育成すべき能力に関して、民間企業は社内で適切に教育できると考える場合が少なくない。他方で、将来上級管理職を目指す研究課長級に必要な能力育成の観点では、30歳から36歳において社会人博士として大学に派遣する取り組みも行われている。特に電機分野では化学分野より社会人博士の活用は多い(本章の末尾に参考として示す、大阪大学の調査でデータとして表れている)。民間企業においては博士レベルの能力教育のタイミングが重要であり、そのタイミングが研究開発分野で異なる。その視点から大学と民間企業の研究開発者育成接続プログラムは、研究開発分野の特質に沿って適切な期間と場所で実施されており、現状は妥当との見方もできる。このように、現場の現実の課題に直接対処するには、研究開発の包括的な状況に基づく分析結果は参照しつつ、研究開発分野別の分析が必要であり、更に精緻な分析では民間企業の規模(資本金等を指標とする)により細分化することが望ましいとの見方ができる。

ところで、民間企業において、国際競争で優位に立つ市場価値の高い製品実現では、業務を牽引する研究開発課長級人材や、専門職としての高度研究開発リーダ人材がプロジェクトを牽引する。民間企業にとっては、その人材育成のための社内プログラム実施は経営上の重要事項である。それは、博士課程修了者の採用や社員の博士の学位取得によって達成できるものではないとの見方がある。事業に特有な研究開発実践OJT、研究開発部門間人事ローテーションなど、人材育成への種々な仕組みが必要と考えられている。実際に、研究開発課長級人材や、専門職としての高度研究開発リーダ人材のうち、博士の学位の取得者は多くは“ない”。しかし、博士の学位を持たない多くの者も、それらのポストに任命され業務を牽引し、研究開発プロジェクトを成功させている。

なお、1980年代ごろまで上述の研究開発課長級人材候補や高度研究開発リーダ人材候補は、入社後、会社支援の下、大学の論文博士の制度を使い、自ら博士の学位取得を目指す場合も少なくなかったと言われる。2000年代に入り、上記人材候補が博士の学位取得を目指す場合、大学は論文博士に代わり、社会人博士の制度を中心に位置づける場合が多いと言われる。そのため、4.2節で示した社会人博士に関する種々の要因から、博士を目指す者が少なくなったとも言われている。

(参考)社会人博士の実態調査からの分析

報告者は、大阪大学 大学院工学研究科において、特任教授の立場で、工学研究科のマネージメントを担う教授との連携により、社会人博士の実態を把握する調査を実施した。その結果は、本稿で示した分析内容の妥当性を検証するエビデンスデータとして活用している。
大阪大学 大学院工学研究科 附属フューチャイノベーションセンター下記URL

参考文献・資料

1) 塩谷景一:民間企業の研究開発関連業務における日本の大学との連携状況の分析 ―研究開発者育成を含めた工学系領域における研究開発力強化の課題検討― 文部科学省 科学技術・学術政策研究所 DISCUSSION PAPER214 2022年10月

2) 塩谷景一:大学と民間企業による協働研究開発システムの実態 ―工学系の事例研究― 文部科学省 科学技術・学術政策研究所 DISCUSSION PAPER177 2019年12月

3) 塩谷景一:日本の超大企業の研究開発システムの実態 ―製造関連企業の事例研究― 文部科学省 科学技術・学術政策研究所 DISCUSSION PAPER154 2018年 3月