STI Hz Vol.9, No.4, Part.5:(ナイスステップな研究者から見た変化の新潮流)株式会社ソニーコンピュータサイエンス研究所東京リサーチ リサーチディレクター一般社団法人 NeuroPiano 代表理事古屋 晋一 氏インタビュー-文化が持続可能に発展する社会を目指して-STI Horizon

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  • DOI: https://doi.org/10.15108/stih.00352
  • 公開日: 2023.12.20
  • 著者: 小倉 康弘、福嶋 雅彦
  • 雑誌情報: STI Horizon, Vol.9, No.4
  • 発行者: 文部科学省科学技術・学術政策研究所 (NISTEP)

ナイスステップな研究者から見た変化の新潮流
株式会社ソニーコンピュータサイエンス研究所
東京リサーチ リサーチディレクター
一般社団法人 NeuroPiano 代表理事
古屋 晋一 氏インタビュー
-文化が持続可能に発展する社会を目指して-

聞き手:科学技術予測・政策基盤調査研究センター 主任研究官 小倉 康弘
企画課 国際研究協力官 福嶋 雅彦

「ナイスステップな研究者2022」に選ばれた古屋晋一氏は、音楽家の熟達支援の研究や、過度な練習に伴い発症する音楽家特有の脳神経系の異常を正常に戻すためリハビリテーションの開発などを行っている。また、研究・開発により得られた成果を一気通貫に練習・指導現場に還元する教育プラットフォームの創出と普及などに取り組んでいる。本取材では、古屋氏の研究や今後の展望等を伺った。

株式会社ソニーコンピュータサイエンス研究所東京リサーチ リサーチディレクター一般社団法人 NeuroPiano 代表理事 古屋 晋一 氏(NISTEP撮影)

株式会社ソニーコンピュータサイエンス研究所
東京リサーチ リサーチディレクター
一般社団法人 NeuroPiano 代表理事 古屋 晋一 氏
(NISTEP撮影)

- 御自身の研究についてお伺いします(図表1参照)。

私の研究の主眼は演奏家のための研究ですが、その背景として、脳がどのように身体の動きを制御し、学習しているかが主な問題意識です。

ピアノ演奏は指だけを使うと思われるかもしれませんが、響く音を鳴らすときには下半身を動員するなど、実際には全身を使います。また手指をこれだけ巧みに操る運動は他に類を見ず、それを両手で行うため、脳には高い負荷がかかります。したがって相応のトレーニングが必要になるため、演奏家たちは、幼少期から日に何時間もの練習を、一生をかけて行うことで、技能を習得し、洗練させ、表現を創出することになります。

この過程で、過度な練習により、手指の痛みや動作不良等の脳神経系・筋骨格の疾患を発症し得るリスクがあります。加えて、緊張から舞台上で思い通りに演奏できなくなってしまう、いわゆる「あがり」の問題もあります。

これら脳・身体・心の問題が発生すると、せっかく獲得した技能が失われてしまう場合があり、リハビリテーションや再学習により、技能の再獲得が必要になります。演奏技能の獲得・洗練・喪失・再獲得の流れにおける脳と身体の変化の過程、メカニズムを理解することで、音楽家をサポートしたいと考えています。

私の研究テーマは、大きく捉えると脳神経系の可塑性です。これは神経科学では比較的幅広い分野で、例えば高齢者の学習効果に関する研究等があります。私の研究対象は主に長期間高度に練習を積んだエキスパートで、更に技能を得て限界を突破して変化し得るのかを問います。実は、この過程で、かえって指が動きにくくなる脳神経疾患、局所性ジストニアを発症するリスクがあり、その取組はもろ刃の剣ともなります。

一般的には、少し脳が指令を送ると身体が即座に反応する、自動車で例えるとアクセルが良く利けば良いはずです。しかしその場合、ブレーキの利きも良くする必要があります。アクセルとブレーキ、それぞれを制御する能力の変化は洗練のプロセスに関わります。この誤作動が局所性ジストニアであり、喪失のプロセスに結びつきます。

技能の獲得・洗練・喪失・再獲得の過程の中で、当初は獲得の部分に興味がありました。局所性ジストニアの研究を始めた際は、なぜ技能を喪失するか、またどのような理屈で何を行えば再獲得できるかに興味を持ちました。この中で、洗練の部分が抜けていると一連のプロセスに貢献する研究になりませんので、今はその部分に注力すべき状況と感じています。

図表1 音楽家のための研究・開発・教育の循環する“サーキュラーリサーチ”図表1 音楽家のための研究・開発・教育の循環する“サーキュラーリサーチ”

(古屋氏提供)

- 研究者としてのキャリアを歩まれるきっかけをお伺いします。

私は学生時代、休日にピアノを10時間練習する日もあり、それが原因で身体を傷めてしまいましたが、様々な仮説を立て、上達に向けた練習ができていました。もっとうまく()ける方法を追究した実験的な蓄積があったと感じています。

なぜか私が興味を持ったのは身体のことでした。奏法に関しては多くの蓄積がありますので、学生時代には誕生日プレゼントに教則本を買ってもらい、様々に試行しました。また人に教えるときを想定する等、視点を変えて身体の動きを検討し、音の響きが良くなる、フレーズが長くなる方法などを考えていました。この際、聴覚と身体の動きの間の橋渡しを意識したことが、この探索的経験の意義だと思います。

当時研究者としてのキャリアは念頭にありませんでしたが、理数科に所属し、物理が大好きでした。その中で、講義を通して当時大阪大学の井口征士先生が開発されたピアノ自動伴奏システムを知り、工学と芸術は橋渡しができることを学びました。また、工学は音楽の後ろに位置しないといけない、つまり工学が音楽をサポートする立場を取るべきことも、研究者のキャリアを志向する中で私が学んだ大きなことでした。音楽家は、感性と解釈に基づいて音楽づくりを行っています。そこに私個人のセンスが入るのはおこがましいというか、介入すべき部分ではないと思います。それよりも、私は練習法や身体の使い方の部分で音楽家の方々をサポートすることに興味がありましたので、身体の使い方に関連するバイオメカニクス(生体工学)に進みました。この姿勢はずっと貫いているつもりです。

大学時代は練習改善のためにひたすら論文を検索しましたが、2000年あたりはピアノ演奏に関する生体工学的研究は見当たりませんでした。音楽家の問題として、痛みや故障のみならず、力みや疲れ、演奏できない等の症状が聞かれていた状況下、このギャップを埋めるのが自分のミッションかもしれないと考え、研究を始めました。

誰も行っていない研究は際物扱いされる面もあり、当初は、どの学会に行けばよいか分からず、学会でも質問が出ないことも多々ありました。この研究における主要な関連分野であるスポーツ科学、神経科学や身体教育学からも多くを学びました。そうした分野への波及効果も踏まえ検討を重ね、様々な学会に参加する中で、少しずつ関心を寄せていただき、自身の研究や他の研究者との共同研究が可能になりました。

私が指導する学生、ポスドクに日頃伝えていることに、私たちは音楽家の研究をしているが、それ「だけ」をしていてはいけないということがあります。この研究は複合領域ですので、そうしないと他分野と協働するチャンスが失われてしまう。脳が複数の関節とか筋肉をどのように協調させて制御しているか等の一般的な興味や、あるいはロボットの制御の方法を考えるなど、様々な分野に共通する問題意識を探し、相乗効果を生むことを常に意識するようにしています。

- センサー・映像による解析や、機械学習等は、専攻分野では従来多く用いられていましたか。

まず、特にクラシックの音楽家の方はそこまでテクノロジーを好きでない印象を持っています。また身体運動学で以前より行っていたモーションキャプチャーによる動作解析は、ピアニストの複雑な動作に適用する場合、マーカーの数が多く、データの取得・処理・解析が大変で、可視化の技術も乏しく、なかなか進展しませんでした。

株式会社ソニーコンピュータサイエンス研究所に来て一番良かったのは、それらの課題を克服可能であったことです。高度なセンシング、あるいはロボット工学の技術を応用し、すばらしいエンジニアたちとの協働により初めてピアニストの動きを体験可能になり、演奏に還元する際の動作解析の有用性の理解も進みました(図表2)。ただ映像を見せるだけでは複雑すぎて、十分に還元できないケースも多々ありました。どのように情報を取捨選択すれば皆さんが理解し、演奏に反映可能かという問題意識を得る機会にもなりました。

もう一つ明言したいのは、社会実装についてです。私たちは社会あるいは人類そのものに貢献することをミッションに掲げています。自らフィールドを設定し、それに貢献する一気通貫の社会実装が可能なことも、非常に意義深い点です。

図表2 ピアニストの演奏技能を転写する手指外骨格ロボットを用いたトレーニング図表2 ピアニストの演奏技能を転写する手指外骨格ロボットを用いたトレーニング

(古屋氏提供)

- 科学技術全般の進歩は、研究の進展に関わってきましたか。

まず、機械学習によってターゲットを絞った仮説立案が可能になったことがあります。ピアノの演奏には、指、頭、膝の動きなど、音以外にも膨大な情報があり、音が響かないという問題にそのどれかが関わっています。機械学習はこの膨大な情報の取捨選択が得意で、次元圧縮による情報のそぎ落とし等を可能にします。

もう一つ、以前と劇的に変わったのがセンシング技術です。今はマーカーを使わずに身体の動きを捕捉可能ですし、カメラは非常に高測度・高精度になりました。これに機械学習を応用し、画像から非接触で関節の位置や角度を推定する深層学習アルゴリズムがあります。

これらの技術を生かして、若いピアニストへのトレーニングやデータ取得によってスキルに関するデータのエコシステムを構築し、教育と研究の両輪を回していくイメージを持っています。

- 今後の「指導者」へのトレーニングに関して伺えますか。

最も重要な点だと思います。リスキリング、STEAM教育がキーワードです。

私たちのプロジェクトでは、日本のトップジュニアのピアニストたちを呼んで指導をしていますが、指導者は私だけでなく、これからの次世代を担うすばらしい若手のピアニストの方々にも指導いただいています。興味深かったのは、私が姿勢や腕の使い方の変化で音がどう変わるか実演しながら説明をすると、先生方の指導の仕方が変わり、音と身体の使い方を結びつけた助言をするようになったことです。アート・サイエンス・テクノロジーの掛け合わせが、教育の能力の再獲得、更に洗練に貢献し得るということだと思います。

私たちのアカデミーの9歳、10歳のピアニストが、タブレットを使って2時間ぐらい姿勢や身体の使い方を検討しながら練習することもあります。これは、子供たちの科学技術能力向上という意味でSTEAM教育に有用です。さらに、演奏家が新たな指導技術を習得する意味ではリスキリングにも貢献できると考えています。教育プログラムの作成と更に高質な教育の提供、教育者の育成が次のミッションだと考えています。

音楽の場合、速く弾ける、リズムにばらつきがないことが必ずしも良い訳ではありません。したがって、理想の演奏をゴールに設定し、その知覚体験を基に、差分を身体の動きの違いに関連付けるアプローチにより、音楽をサポートするサイエンスという位置付けに留意しています。

唯一無二を探究するのではなく、どの表現もできるようになることが私たちの目指すところです。様々な音、音色、響きを創る能力を持った状態で、演奏家が自身の解釈と審美眼に基づき「この表現を選びます。」という次元に持っていくことを、私たちがしないといけないと思います。それにより、技術で評価する社会から、表現そのものから好き嫌いを選ぶ社会への、文化的な成熟につながっていくと考えています。

- 海外での研究経験をお伺いします。

ドイツの研究環境の特色を2点紹介したいと思います。私はハノーファーの音楽大学にある研究所に勤務していました。音楽家の方に身体的なトラブルが生じた際は相談に来られ、演奏時の身体の使い方・姿勢等にフィードバックを行いました。また必修授業の中で、身体のトラブル、あがりの予防等に関して研究機関として講義を行いました。音楽家専門外来も存在し、深刻な疾患を抱えた方々が世界中からいらっしゃいました。その方々には障害・疾患のメカニズムに関する臨床研究、また最近の研究成果の検証に御協力いただきました。「音楽家医学」の最先端の研究と臨床がシームレスにつながった、トランスレーショナル医療のような環境はドイツの特色です。

もう一つ、違う街、違う国で会った人との交流が多いこともドイツの特色です。米国でも研究をしていましたが、そちらでは他大学との物理的な距離から、大学内のつながり、他学部の研究者との交流が中心でした。ドイツは近隣・他国の大学にも訪ねて議論、共同研究を行う等のネットワーキングが可能でした。

- 日本の研究環境についてお伺いします。

神経科学の分野では多くの優秀な研究者の方々がいらっしゃるので、その点はすばらしいと思います。ただ、日本に限らずアジア全体として、私の研究分野のひろがりは後れを取っていると感じており、音楽的才能に富む人材が多くいる地域である点を踏まえると少し残念で、音楽家をサポートする密なコミュニティの形成は課題です。日本は楽器メーカーのみでなく、世界的な音楽家も数多く輩出しており、文化的な懐の深さが十分にありますので、ミッシングピースである研究をしっかり行い、エビデンスに基づいた教育を提供することで、アジア全体の音楽の水準、文化的な豊かさが向上すると、私は信じています。

- クラシック音楽やピアノの日本における文化的側面は、海外とはやや異なる構造かと想像します。

クラシック音楽は西洋に端を発するため、それに対する社会の姿勢は欧州の方が進んでいると思います。例えばハノーファーのあるニーダーザクセン州では、オペラのチケットを買うと代金の一部が税金でカバーされ、結果として非常に安く鑑賞できました。またドイツの音楽大学を卒業し更に上の課程に進むと、国家から認定資格が授けられ、演奏家を大切にする文化的深みがあります。

他方、現在欧州の音楽大学に多くの日本人を含めアジア人が在籍していることから、日本の教育のすばらしさも感じました。楽器メーカーが提供する音楽教育、大学等によるプログラムが子供たちの能力向上に貢献しているのは間違いありません。欧州と日本、どちらが良いかはともかく、その取組は明らかに異なる印象です。

問題は日本人が欧州で活躍した後にどうするかです。多くは日本ではなく、欧州で仕事を探す状況です。それを見ると、文化的成熟には、育成したすばらしい芸術家たちが自国で活躍できる循環の仕組みづくりが有用ではないかと考えており、その設計を行政の皆様にお願いしたいです。そうすることで、逆に欧州の学生が日本・アジアに留学したいという状況に変容するかも知れません。現状は音楽をより深く学びたくなったら欧米へ留学という発想になりますが、ともすれば人材の国家間移動が異なる様相を呈していくと思います。

先日、ダイナフォーミックス、つまり音楽家のための科学分野の研究者に様々な国からお越しいただきワークショップを開催しました。その中でも、この分野で日本が世界をリードする可能性があると感じました。それは決して私だけの力ではなく、他の多くの先生や研究者、またメーカーの存在も優位性だと思います。若い人を支援する立場からも、将来の展望が明るい分野の発展をより手厚くサポートしていただきたいと考えています。

スポーツの場合には産業からスポンサーがつき、その資金によりアスリートを支援し、それに伴いスポーツ栄養学、バイオメカニクス等も大きく進展します。対照的に音楽にはその構造を援用するのは難しいと感じています。大きなスポンサーがつかないからこそ、産業からよりも行政から文化支援をしていただけると有り難いというのが私の考えです。

(2023年8月31日オンラインインタビュー)


注 STEM(Science, Technology, Engineering, Mathematics)に、芸術・文化・生活・経済・法律・政治・倫理等を加えた広い範囲でAを定義した、教科横断的な教育。
(文部科学省初等中等教育局教育課程課「STEAM教育等の教科等横断的な学習の推進について」,https://www.mext.go.jp/content/20230515-mxt_kyouiku01-000016477.pdf