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- DOI: https://doi.org/10.15108/stih.00303
- 公開日: 2022.09.26
- 著者: 宮地 俊一、新城 希、岡村 麻子
- 雑誌情報: STI Horizon, Vol.8, No.3
- 発行者: 文部科学省科学技術・学術政策研究所 (NISTEP)
ナイスステップな研究者から見た変化の新潮流
大学共同利用機関法人 人間文化研究機構
国立歴史民俗博物館 准教授 後藤 真 氏インタビュー
-人文学の研究を可視化し未来につなぐ
デジタル・ヒューマニティーズの開拓-
科学技術予測・政策基盤調査研究センター 主任研究官 岡村 麻子
「ナイスステップな研究者2021」に選定された後藤真氏は、正倉院文書研究をはじめとする日本古代史を専門とする立場から、人文学に情報学の技法や技術を応用する人文情報学(デジタル・ヒューマニティーズ、以下DHという。)分野を日本で切り開いてきた注1。
今回、ナイスステップな研究者2021講演会の内容注2も踏まえ、氏の考えるDHや人文学の展望について、また、DHとの出会いから今に至る「ナイスステップ」を伺った。
国立歴史民俗博物館 准教授 後藤 真氏
(後藤氏提供)
- DHという新しい融合分野について、どのようなことを面白いと感じ、取り組まれているのでしょうか。
個別に融合分野の面白さを語る前に、まず、その見方について一言触れさせてください。融合分野を楽しむためには、とにかく様々な知を面白がることが大事であると考えています。歴史学の面白さに情報学の面白さを加える。歴史学の資料がデジタルデータになることで、これまでの見えなかったものが明確に可視化されていくことで理解の幅が広がっていく、そのプロセス自体が面白いと思っています。
例えば、人文学者同士が話をすると、比較的共通理解のあるコミュニティの中では、一つの対象についてそれぞれの頭の中で同じようなイメージで話をしている状況が多いです。私の元々の専門である正倉院文書を例に挙げると、その古文書を書いている人たちが実際にどういう格好をしていたかや、どういう社会状況の中でそれらの文書が書かれているかなど、日本古代の研究者はある程度共通したイメージを持ちつつ、それぞれ最後の部分は個人の研究として突き詰めて考えます。この個人研究自体はもちろん重要で意味があるのですが、情報学の技法を用いて分析し、その結果として出てきた正倉院文書の別の見方を示せると、歴史資料への理解がより深まりますし、情報学的にも新たな解析手法が生まれたりします。データを使うことで、当時の社会像の理解が、各研究者の頭の中から外に開いていく、というところが私にとっては面白いところだと思っています。
また、情報技術により、資料が可視化されたマップやグラフができたりすると、全てではないにしても別の見え方があるという気づきは出てくるので、その結果を歴史学者にフィードバックしていくと、なぜこのような見え方になるのかという議論になっていき、情報学と人文学の循環が作られていくのも、特に面白いと思っています。
私がDHの研究を始めた頃から、情報学の研究者と協同することで研究を進展させてきましたが、若手研究者、特に若手の大学院生から、ポスドクぐらいの人たちは更に変わってきています。自分自身でスキルレベルの高いプログラミングにより研究を進める人文学の若手研究者も出てきました。こうした状況を見ると人文学の在り方が徐々に変わってきていることを感じますし、DHを本格的に発展させていくのは彼らの世代だと思っています。ただし、一人でプログラミングしつつ同時に人文学で必要とされるような大量な資料を読みこむことは難しいので、チームで研究していくことも併せて欠かせなくなるだろうと考えています。
- 日本のDHの発展にはどのような特徴があるでしょうか。
日本のDHの研究者は人文学のコミュニティ全体との割合で見たときには決して多いとは言えないですが、逆に人数が少ないからこそ分野を超えてつながることができています。例えば、文学であれば一人の書き手によってできた一つの書籍を徹底的に解析しますが、歴史学だと古文書の書き手がそれぞれ違っており、コンピュータによる解析が同じようにできないことがあります。ここから、それぞれの分野による「読みの違い」が可視化されますので、人文学間での分野横断的な議論が可能になったりします。このように元々別の分野出身であってもDHの研究者としてデジタルという手法を介して分野を超えて議論ができることは一つのポイントだと思います。そして、このような違いの可視化は、情報技術が人文学同士をつなぐ媒介としての役割を果たすだけではなく、人文学の視点から情報工学に議論が展開されたり、ほかの自然科学とつながっていったりなどの展開にもなります。そこから人文学の拡張が進んでいくものと思っています。
既に欧米圏においては、DHは大きな分野になっています。また、DHの世界大会が年に1度あり、実は今年は東京で、アジアで初めて行われます。このDHの世界大会は、発表の件数だけで見ても数百から千近くあったりするなど、非常に大きなコミュニティとして出来上がってきています。また、アメリカの事例としては、人文学の研究者が外部資金を申請する際、デジタルをどれだけ絡められるかが重要な条件になってきているようで、それが人文学者のDH研究を推進へとつながり、DH分野の研究人口が増えることにつながる側面もあるようです。どのような国や分野であれ、DHという手法を介してつながって議論ができているというところは、人文学の拡張にとって大きな意味があると思っています。
日本のことに話を戻します。海外のDHは人文学の研究者がデジタルという手法を使うということが多い一方、日本の場合は情報学の人が人文学に参入して一緒になって研究活動がされていることが多く、更に多様なコラボレーションが生まれやすい状況になっているのは日本の良い点だと考えています。それでも、海外のコミュニティの大きさに比べるとやはりまだ小さいので、日本において欧米のように人文学者にもっとデジタルに関わってほしいと思うところはあります。日本の人文学コミュニティの中から良い成果が海外の学会などに出ていくことも見受けられ、海外のDHコミュニティと連携していくことにより日本の人文学の可能性を広げていく意味でも、日本の学会でも取り組みを進めていく必要があるように思います。
- DHによって、人文学自体がサイエンスとして進化していくと言えますでしょうか。
人文学は、例えば、江戸時代の社会を分析し、そこから現在に至るまで、大きな視点で社会がどのように変わっていくかということをテキストとして記したりしますが、そのような形でグランドデザインを示してはいます。その点では、人文学も広い意味でのサイエンスとして研究を推進しています。ただし、人文学は例えば100年後の未来のためにといった長期スパンでものごとを捉えているので、すぐに社会課題の解決にはつながらないことも多いです。さらに、今がどうかという話をするときにはどうしてもエピソードベース、記述ベースの話が多くなってきてしまいます。これらはどうしても人の思考の結果としての記述で書かれるので、科学的な意味での再現性という点ではやや薄いです。
それに対してデータで可視化していけば、再現性が高くなるので、その部分ではより厳密な意味でのサイエンスに更に近づいていると言えます。言い切ることは難しいですが、サイエンスとの親和性がより高くなったという言い方はできるのではないかと思っています。
- 人文学の研究成果を評価するのは難しいですが、社会における人文学の意義をどのように考えられているでしょうか。
先ほど言いました通り、人文学は「かなり遠いところを見ている」学問です。例えば、今まさに起こっているウクライナの問題であっても、社会科学は具体的にその戦争が起こってしまう政治的・社会的プロセスを解析するのが仕事だと思いますが、人文学は更に一歩引いてなぜ人は紛争を起こすのか、戦争とは何かという議論を行い、これを解明することによって未来の争いを回避するのが大きな仕事になっていると考えています。
だからこそ、人文学の成果はすぐには見えにくく評価も難しいのですが、社会の大きな流れの中に人文学が少なからず貢献している部分があるのだろうと思います。先ほど触れた紛争の問題のほか、例えば、ジェンダーの問題や社会的な排除の問題でも、社会が少しでも良くなることにつながることを、数十年のスパンで、少しでも貢献する理論作りをしていると思っています。このように、人文学は、実はすごく遅いけれども重要なことに取り組んでいる。ただ、そのことをうまく評価に落としこむのはかなり難しいと思っています。
また、人文学の知見は、人類の生存に関する量というより質に貢献する部分が大きいです。例えば医学であれば、QOLの議論ももちろんありますが、一義的にはどれだけ長く生きられるかということからスタートしているという理解です。一方、人文学はどちらかというとどれだけよりよく生きるかという質の方に貢献します。量の議論は明確な効果として見えやすいですが、質が良くなりましたということは、やはり示すのが難しいです。
さらに、人文学にはネガティブなものを食い止めるという点もあります。先ほど例に挙げた紛争の例で見ても、紛争が起きないことは実は人文学の知であるかもしれないけれど、その「起きていない」ことを評価していくことは難しいです。
ただ一方で、研究をデジタルで可視化することで大きな流れの一端をかいま見えるようにすると、人文学の取組の理解にもつながるだろうし、研究評価をする上での材料も見えてくるのではないかと思っています。
- 企業、自治体、地域住民など、広く様々なアクターと研究を進められていますが、どのようなお考えで取り組まれているのでしょうか。
一つは、そのような人文学の特性を踏まえつつも、人文学(人文情報学・歴史学)の立場からより明確に社会の要請に応えていきたいという視点があります。例えば、花王株式会社さんの方から持ちかけていただいた、「清潔」とは何かという課題を文化的、歴史的に考えるという共同研究プロジェクトを、たまたまですがコロナ禍前から始めていました。清潔にするということのためにどのような化学的な性質のものを開発するかということのみならず、例えばアルコール消毒をするという実態的にも意味がある行為が、実は人の安心感につながるということも含めて、人の清潔感とは何かということを人文学の視点も加えて検討しました。これは、社会の中の「清潔」の在り方を考えていくための一つのヒントとして人文学が重要であると思ってもらえたからであり、そのために共同研究を求められたのだと思います。その点からは、社会のニーズの中に人文学が入ってくるような状況にもなっていると感じます。
もう一つは、様々な地域など社会の中に入っていかないと得られない知があるという視点もあります。人文学は人そのものを対象として考える学問ですので、彼らが持っている知を研究の中に含めていくことは重要です。このときに、資料などをデータ化して可視化すると、それをきっかけに地元の人たちから、例えば地域の環境に対して伝統的にどのような対応をしてきたかなど引き出すことができ、まさにそこに研究の次のヒントがあったりします。こうした「在来知」は、地元の人たちのある種の知恵ですが、それを研究者が知り、専門家として大きな知識体系に位置付けていくことになります。
このように、社会の要請に応える上でも、研究を進展させる上でも、その両面で外部の方々と連携することは重要だと考えています。
- 連携のための基盤プラットフォーム作りにも御熱心ですね。
データプラットフォームを作り、よりわかりやすい形で可視化させていくということ自体が、DHが活躍できるポイントです。これまでももちろん、地域の人たちが人文学の研究者と一緒に活動することは、私の所属する国立歴史民俗博物館では民俗学・文化人類学の研究者がよく取り組んでいます。そのような中で、研究者と地域の方とのやり取りといったエピソードベースで限られた人で共有されていたものが中心だったところが、データプラットフォームになることによって広く展開でき、人文学の成果をよりわかりやすく多くの人に伝えることができるようになると思っています。
- DHは今後どのような新展開を作っていくのでしょうか。
DHの話をしているとよく聞かれる質問ですね。正直に言うと、歴史学全体を大きく変えるような成果は、まだこれからのことだと思っています。例えば、情報学者がAIによる画像処理技術を用い、江戸時代の典籍(本)の文字認識を進めたのは大きな出来事でした。また、私自身のプロジェクトに関して各地域の生産力をグラフで可視化することなどの手法も進めていますが、まだ一つの資料からのデータの可視化にとどまっています。しかし、今後、大量のテキストデータが蓄積されてくると、例えば、江戸時代の全国の村の状況がどうだったかなど、全体像が可視化され、新たな未来が見えてくると思っています。今は、地域の文献における記述に基づくデータの可視化が始まったところですので、ここから人文学者の出番が更に出てくると思います。それは単に昔のことを知るというだけではなく、今の我々につながる社会の前提がどうであるかを知ることでもあります。今までは、「昔こんなことがあった」というエピソードから社会全体の説明を起こしたりして、個別性から全体を示すにとどまりましたが、グラフで全体が見えるとか、地図で全体がわかるとか、より広い可視化をすることにより、歴史をより大づかみで理解できるようになるのではないかと思っています。
- 先生の「ナイスステップ」をお伺いします。DHという新興融合分野に進んだきっかけを教えてください。
本格的にDHに踏み入れるようになったのは、本当にたまたまだと思っています。具体的には、大学院時代に歴史のことを対象とする情報学の先生と出会ったタイミングでした。私が院生だった頃から、情報学の先生方が研究の一環として人文学分野に挑戦し始めている例があり、たまたまそんな先生に出会って、自分自身は人文学の立場から進めてみようとスタートした、そのきっかけが大きいです。一方で、正倉院文書の研究状況を見ていて、もっと学界で事前に共有できる知見があるのではないか、とも思っていました。研究者が個人でそれぞれ正倉院文書の情報を分析し、蓄積していましたが、それがいつまでも知見として共有されていない状況がありました。個人の研究者の中だけに蓄積されていくような状況から脱却する方法を考えていました。その個人での分析・蓄積はある種の訓練であり、若い大学院生のときに進めるのは重要ですが、学界全体としてはコンピュータを使えばいいという見通しがありました。今でいうオープンサイエンスにつながるような発想を持っていたのかもしれないと今になってみれば思います。
- 情報系の学会で異色の人文学者として登壇され話題になったこともありました。
当時は、情報処理学会の中で、人文学を基礎とした研究者がコンピュータを使い研究を進める、ということはそこまでなかったと思います。特に、コンピュータを使った歴史学といった融合分野を研究するのはかなり早く、「変わった人」であったことは自覚をしています。その「変わった人」がそのまま研究を進めることができたのは、当時の歴史学の指導教員も理解のある人だったことも大きな理由でした。「何かよくわからんけどやってみたらええんちゃうか」とチャレンジをさせてもらえるような環境があり、そこで成功体験を持てたのは本当に大きかったです。このため、面白そうだと若い人が思っているその芽を大きく育てるように考えられる環境が重要だと思っています。
他方、一人で突き詰める研究もそれ自体重要で、それを尊重し、少しずつ成果を上げていくことによって広く認めてもらい、仲間を増やしていくということを心がけています。もちろん、情報技術の重要性が理解されている社会状況ともうまく合致したということもあります。
ただ、今となっては、DHという言葉自体が、一つの分野として確立する状況ですので、私のようなタイプの研究者も異色ではなくなっていくのだろうと思います。それは新しい分野ができて、一つの分野として確立していき、そこに仲間が増えていくという観点では、喜ばしいことと思っています。
- 御自身のこれまでの「ナイスステップ」を俯瞰して、これからの「ナイスステップ」を踏むであろう若い研究者や学生に対して伝えたいことを教えてください。
最初の融合分野の面白さの話に戻るのだと思いますが、自分は様々な事柄を面白がる学生時代だったと思っています。私自身がDHを始めた頃は、まだ分野全体としても何ができるかわからないことだらけでした。それでいきなり使えないとするのではなく、面白そうだ、これがいつか活きるかもしれないと、自分自身や自分の分野に取り入れてみることは大事だと思います。これは情報学や人文学の別分野への関心に限らず、例えば、地元の人が話していることを面白がるといったことも当てはまります。その点は、学生時代のときから今も余り変わっていないと思っています。
このような、様々なことを面白がり、さらにその面白さを拡張していくためには何が足りないか、ということを考えることは研究者の根本的な部分だと思います。「狭めない」ということを、若い人たちに考えてほしいです。最終的にはある研究分野のど真ん中を進んだとしても、他の分野の知に対して好奇心を持っておくことは大事だと思っています。
その上で、いろいろしんどいことがあったときに初心に立ち返るといった自分の確固とした部分を持っておくことも大事です。私の場合は日本の歴史、特に人がどのように生きてきたのだろうかということがスタートラインですが、その初心も忘れないように研究を進めています。
(2022年6月8日インタビュー)
* 所属は執筆当時
注1 後藤氏の研究内容の詳細は下記リンクを参照されたい。
https://www.nistep.go.jp/wp/wp-content/uploads/nistep2021_press.pdf
注2 NISTEP公式YouTubeを御覧ください。