STI Hz Vol.8, No.4, Part.5:(ナイスステップな研究者から見た変化の新潮流)東京大学大学院 工学系研究科 バイオエンジニアリング専攻 特任講師 作道 直幸氏インタビューSTI Horizon

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  • DOI: https://doi.org/10.15108/stih.00312
  • 公開日: 2022.12.20
  • 著者: 齊藤 美智子、蒲生 秀典
  • 雑誌情報: STI Horizon, Vol.8, No.4
  • 発行者: 文部科学省科学技術・学術政策研究所 (NISTEP)

ナイスステップな研究者から見た変化の新潮流
東京大学大学院 工学系研究科 バイオエンジニアリング専攻
特任講師 作道 直幸 氏インタビュー
ソフトマターの新たな法則の発見
-ゴムやゲルの物理が導く新たな世界-

聞き手:企画課 業務係長 齊藤 美智子
科学技術予測・政策基盤調査研究センター 特別研究員 蒲生 秀典

作道直幸氏は、60年以上未解決であったゴムの高速破壊を引き起こす「速度ジャンプ」の発生メカニズムを解明するとともに、ゼリー、豆腐などの食品、ソフトコンタクトレンズ、止血剤などの医療材料に活用されるゲルの柔らかさについて、100年近く信じられてきた定説をくつがえす「負のエネルギー弾性」を世界で初めて発見し、ゴムやゲルなどの柔らかい物質(ソフトマター)の従う物理法則を次々と明らかにしてきた。

今回のインタビューでは、研究者を目指し、ゲルの基礎研究にたどり着くまでのいきさつ、ゲルの基礎研究の魅力、また海外との比較を含め、話を伺った。

東京大学大学院 工学系研究科バイオエンジニアリング専攻 特任講師 作道 直幸氏(作道氏提供)

東京大学大学院 工学系研究科
バイオエンジニアリング専攻 特任講師 作道 直幸氏
(作道氏提供)

- 「ナイスステップな研究者」の選定理由は「ソフトマターの新たな法則の発見―ゴムやゲルの物理が導く新たな世界―」になります。研究の概要について御紹介ください。また、研究分野の魅力を教えてください。

柔らかい物質を総称してソフトマターと呼び、ゴムとゲルはその仲間です。ゴムとゲルはどちらも高分子の網目(ネットワーク)からできています。ゴムは溶媒(水など)をほとんど含まないドライで柔らかい固形の物質です。一方、ゲルは溶媒を大量に含むウェットで柔らかい固形の物質で、ゼリーやソフトコンタクトレンズなどが代表例です。高分子の概念が確立したのは、量子力学のシュレディンガー方程式と同じ1926年なので同じくらいの歴史を持ちます。量子力学が今なお研究されているのと同様に、身近な存在であるゴムやゲルにも、現在でも未知なことが多々あります。

<今回の受賞となった研究について>(図表参照)
① ゴムの高速破壊の引き金となる速度ジャンプのメカニズムを解明

タイヤが劣化すると、高速道路で突然タイヤがバーストすることがありますが、このように突然材料が壊れる、その引き金になるのが「速度ジャンプ」と言われる現象です。身近なゴム風船を例にすると、空気を入れてパンパンに膨らんだゴム風船に針を刺すと一瞬でパンって割れてしまいます。一方、それほど膨らんでいない風船に同じように針を刺しても、破れる前に空気が抜けてしまって破裂しません。これらの間のじわじわと壊れるところは見たことがないと思います。実はゴムの破壊は、亀裂が広がる速度が1ミリメートル/秒未満の低速(空気が抜けるよりも遅い)の破壊から、1メートル/秒以上の高速の破壊に数千倍も高速化する「速度ジャンプ」が生じるため、中間的な速度の破壊は起こらないのです。速度ジャンプの発生は60年以上前から知られていますが、なぜ起こるのかは未解決の問題でした。そこで私は、ゴムの破壊を表すシンプルな数学モデルを新たに構築し、それを解いた数学的な厳密解を用いて、速度ジャンプは「亀裂先端部のガラス化」により発生することを理論的に示すとともに、タフなゴム材料の開発への指導原理を与えることに成功しました。その後、企業との共同研究で様々な合成ゴムを用いて私の理論の実証も行いました。

図表 研究成果の概要図表 研究成果の概要

(作道氏提供)
② ゲルの柔らかさに潜む「負のエネルギー弾性」の発見

ゴムやゲルの柔らかさ(弾性率)は、「熱力学第二法則(エントロピー増大の法則)に基づくエントロピー弾性でおおむね説明できる」という、100年近い定説がありました。ゴムやゲルが柔らかく、よく伸びるのは、ひも状の高分子からできているためです。このひもは、熱運動により、ふだんはくねくねと折れ曲がり丸まっていますが、ゴムやゲルを手で伸ばすと、ひもが伸びた状態(ひもの各部分の方向がある程度そろった状態)になります。ここで手を離すと、ひもは熱運動をして丸まった状態(ひもの各部分の方向が乱雑な状態)に戻ります。このように、「方向がそろった状態」から「乱雑な状態」に熱運動で変化することを、エントロピー(乱雑さ)増大の法則と言います。ゴムやゲルの復元力は、エントロピーが増えるために生じるので、エントロピー弾性と言われます。ゴムの弾性率が、エントロピー弾性でおおむね説明できるということは古くから実験的に確かめられています。ところが、ゲルについては確実な実験的証拠がないまま、エントロピー弾性のみでおおむね説明できると仮定して、100年近くの間、実験の解析や材料開発が行われてきました。そこで私たちは、50種類以上の異なる高分子網目構造を持つゲルを正確に作り分けて、その柔らかさの温度変化の測定及び熱力学に基づく解析を行いました。その結果、ゲルに外力を加えて変形すると、元の形に戻る力(エントロピー弾性)が生じますが、同時にそれと反対向きの力(負のエネルギー弾性)が生じて、この合計でゲルの弾性率が決まることを世界で初めて発見しました。負のエネルギー弾性は無視できないほど大きく、この効果を考慮しないとゲルの弾性率は決まりませんが、100年近く見落とされていたのです。

③ ゲルの保水力(浸透圧)の物理法則の解明

ヨーグルトが古くなってくると、表面から乳清(ホエー)と呼ばれる水分が染み出します。乳清は、ヨーグルト自体に十分保水力があれば出てきませんが、保水力が不足すると水分を中に保持できなくなり出てきてしまいます。ヨーグルトは、牛乳のタンパク質などが網目を組んでいて、多量の水分を含んでいるゲルの一種です。水分がどれくらい染み出すかはゲルの浸透圧で決まりますが、その物理法則は明確にはわかっていませんでした。私たちは、液体状のゾルから固体状のゲルまで、高分子がつながって固まるゲル化過程を模倣したサンプルを作り分ける方法を開発し、その際の浸透圧変化の正確な測定に成功しました。測定結果を解析した結果、ゲル化過程の浸透圧は、物質の種類(ゼリー・ヨーグルト・豆腐など)によらず、共通の普遍法則で説明できることを発見しました。

<研究分野の魅力について>
① 古くて新しいゴムとゲルの研究

ゴムやゲルの物理は、古くて新しい研究課題だというところが魅力だと思っています。古来、メキシコ地方では、ゴムの木の樹液を足に塗り酸化して固まったものを、長靴のように足を守るために使っていました。その後、15世紀末にコロンブスがアメリカ大陸において、ゴムの樹液で作ったボールで遊んでいる子供たちを見て驚き、それを持ち帰ってヨーロッパにゴムが伝わりました。ゲルについては、スープなどの液体状の食品やスナック菓子などの乾燥した食品を除けば、ほとんどの食品は広い意味でゲルです。例えば、お肉もゲルです。お肉を焼いたら肉汁が出ますが、これは先ほどお話ししたゲルの浸透圧で決まっています。このように、ゴムやゲルはかなり古くから人類がずっと付き合ってきています。研究の歴史も古くて、「高分子」という概念が確立した100年ほど前からたくさんの研究がなされています。しかし、ゴムやゲルは、金属のように明確な結晶構造を持った物質ではないために、ミクロな(ナノメートルスケールの)高分子の網目構造とマクロな物理的性質(硬さ、浸透圧、強度など)の関係について、科学的なアプローチが難しいです。そのため、古くからの長年の研究課題でありながら、最先端のテクノロジーを駆使して改めて研究すると、本質的な根本原理について、今でも大発見をすることができることが魅力です。

② 均一で制御可能な網目構造を持つゲルの登場

ゴムやゲルは、ナノメートルスケールの複雑な網目構造の高分子からできており、その構造の正確な観察や評価は困難です。量子散乱などの最先端テクノロジーを駆使して観察が試みられていますが、なかなか大変で、明確な網目構造がわかることは少ないです。1990年代まではゲルの基礎物理の研究は精力的に行われていたのですが、2000年頃からは物理学者の研究対象としては世界的にもほとんど廃れてしまいました。ところが、2008年に登場した「テトラゲル」は、均一で制御可能な網目構造を持っており、構造観測をすることなく構造を定量的に評価できます。そのため、網目構造とマクロな物理的性質(硬さ、浸透圧、強度など)の関係を解明するポテンシャルを持ちます。これまで未解決だった古くからの難問に対して、テトラゲルの登場によって科学的なアプローチが可能となったのです。

③ 従来の限界を超えた高精度の実験データにもとづく新しい物理法則の発見

「神が細部に宿る」はソフトマター物理とは異なる量子物理分野の恩師の先生(上田正仁教授・東京大学)が好きな言葉です。既に十分に理解されていると信じられている現象でも、これまでの限界を超えた高精度の実験をすると、ほんのわずかに理論とのずれが見つかることがあります。これくらいのわずかな違いはいいだろうと無視せず、よく観察してみると、実はそこに根本的な大発見につながることがあります。

先ほど述べたゲルの「負のエネルギー弾性」の場合で言うと、一般に、ゲルは再現性良くサンプルを作製することも、弾性率の正確な測定も難しいです。そのため、ゲルの弾性率は、2倍程度のずれを許容する「対数プロット」で議論してしまうことが普通です。しかし、テトラゲルはサンプルの再現性が高く、弾性率を誤差1%未満ので高精度の測定が可能なので、高分子網目構造と弾性率の関係が精密にわかりました。この測定結果をもとに、これまでに知られていなかった物理法則(負のエネルギー弾性)が発見されました。このように、再現性の高い材料と高精度の実験から、これまでに人類が知らなかった新しい物理法則を次々に発見できるのが、ゲルの物理を研究する魅力です。

- 研究者を志すようになったのは、いつどのようなきっかけからでしょうか。また、選定理由となった「ソフトマターの新たな法則の発見―ゴムやゲルの物理が導く新たな世界―」に取り組むきっかけについても教えてください。

<研究者を志すきっかけ>

小学5年生に入った中学受験の塾で習った理科がすごく面白くて、それが出発点になっています。初めに感動したのは月の満ち欠けの話です。月の形が、時刻と位置関係から計算してわかることに感動しました。二つ目は、てこや浮力の原理です。てこを使って力が何倍になるのか、浮力によって船はどのくらい浮くのか、シンプルな原理・原則から簡単な計算でわかるという事実に、すごく感動しました。理科の中でも、身近な現象を計算で説明・理解する分野が特に好きで、当時は「物理」という言葉を知らなかったのですが、後から自分が好きなのは物理だとわかりました。中学生のときに学校の図書館の本(ブルーバックス)を読むようになって、アインシュタインや南部陽一郎氏に憧れて物理学者になりたいと思いました。身近に研究者はいなかったので、なり方は全くわかりませんでしたが、京都大学の理学部に入ってみて、いけるところまでいってみようと中学生のときに思って、そのまま大人になったら物理学者になっていたという感じです。

研究に関わる課外活動で特に印象的だったのは、高校3年生のときに参加した「数理の翼」注1という高校生向けの数理科学セミナーでした。フィールズ賞受賞者の広中平祐氏が1980年に開催して以来、40年以上にわたって毎年夏休みに開催されている合宿形式のセミナーで、日本全国から数学や物理が好きな高校生が集まります。夏に参加して終わりではなく、OB会も盛んで、別の年度の参加者とも知りあえるのも良かったです。今にどうつながったかと言うと、ここで数学や物理が好きな友達ができて、京都大学理学部に入学した友人たちと1年のはじめから一緒に物理の勉強会をすることができました。数学や物理を志す先輩たちに大学生活について聞くこともできました。大学での学業にスムーズに入っていける環境がありました。数理の翼については恩を感じていて、今でも時々運営に関わっています。

<選定理由の研究に取り組むきっかけ>

大学では物理を中心に勉強していましたが、既に物理として確立していることを研究することに興味を持てなかったので、物理を使って物理以外のことをしようと思いました。それで4年生及び修士では化学専攻に進学しました。ところが、分野横断的な研究というのは、既にある分野を修めた研究者が別の分野をやるからうまくいく(ことがある)のであって、何の専門性も持たない学生には難しかったです。それで、化学は修士までで一旦辞めて、博士課程は物理専攻に進学して、量子多体系の理論研究で博士号を取りました(指導教員:川上則雄教授)。その後もしばらくは、素粒子物理学、量子物理学、統計物理学などの伝統的な物理分野の研究をしていたのですが、2015年に内閣府ImPACT注2「しなやかなタフポリマー」に参加したことが、ゴムやゲルなどのソフトマターの研究を始める転機になりました。お茶の水女子大学の奥村剛教授に雇用していただいたのですけど、奥村教授自身も素粒子物理で博士号を取得した後に、分野を大きく変えてソフトマター物理をやっていた方だったので、私みたいな全く異なるバックグラウンドを持つ人を拾ってくれました。それで、受賞理由の一つとなった「ゴムの高速破壊を引き起こす速度ジャンプ」の研究に取り組むことになりました。お茶の水女子大学の任期が残り1年で、次の雇用先を探しているときに、オランダの国際会議で、受賞理由で説明した「テトラゲル」の開発者の酒井崇匡教授に出会いました。国際会議の前夜のウェルカムドリンクで初めて出会って、意気投合して、移動のバスの中などいつも横に座って話を聞いていて、これは面白いと思って頼み込んで研究の機会を頂くことができました。その結果、受賞理由のもう一つである、ゲルにおける「負のエネルギー弾性」や浸透圧の研究につながりました。

- 「ナイスステップな研究者2021」に選定されたときの気持ちや、周りの反応など影響はありましたか?

本当に有り難かったです。初めにメールを見てすごくびっくりしました。エントリーしてもらえるものじゃないので、どうやって自分を見つけてくれたのかと思いました。学会発表でのプレゼンテーションやポスター発表に関する賞は何度か受賞させていただきましたが「ナイスステップな研究者」のような大きめの賞はもらったことがなかったので、自分の研究に自信が付きました。約390名がリストアップされて、その中から10人に選ばれたというのは、光栄なことですが驚きました。自信が付いたので、他の賞にもエントリーしてみました。すると、ライフサイエンス、マテリアルサイエンス、インフォメーションサイエンスから、1名だけ選出される「第9回ヤマト科学賞」注3を受賞することができました。また、日本ゴム協会の「第13回ブリヂストンソフトマテリアルフロンティア賞」注4も受賞しました。これら二つは、著名な大学や研究所の教授や准教授クラスの方々が受賞している賞で、「ナイスステップな研究者」に選ばれてなかったら、応募の検討すらしていませんでした。「ナイスステップな研究者」も含めて立て続けに受賞したので、最近いろんなところで声がかかることが増えてきました。私の研究は、ゴムやゲルの業界ではかなり独特なのですが、今後も独自路線で研究を続けて良いのだな、という確信が持てました。

- 現在取り組まれているゲルの基礎物理の分野において、海外の研究状況と比べて日本はどのような状況にあるのでしょうか。

ゲルの研究全般について言うと、日本は世界でもトップクラスです。日本の科学は、国際的な競争力がどんどん落ちていると言われますが、ゲルでは、日本は独壇場と言って良いくらいの競争力を持っています。例えば、有名なゲルはほとんどが日本発祥です。例えば、北海道大学のグン教授らによるダブルネットワークゲル、東京大学の伊藤耕三教授らによる環動ゲル、川村理研の原口教授らによるナノコンポジットゲル、東京大学の酒井崇匡教授らによるテトラゲルが有名です。日本がどうしてゲルの研究で世界トップクラスなのか、私は新参者なので詳しく知りませんが、東京大学を出られてMIT(マサチューセッツ工科大学)の教授になられた田中豊一氏という、ゲルの研究のパイオニアがいらっしゃったことが関係あるかもしれません。田中氏は、70年代から2000年に急死されるまで活躍された人です。田中氏は物理出身で、基礎研究にかなり力を入れられていた方で、ゲルの物理の強力な推進と新現象の発見や、ゲルの活用についていろいろなアイデアを考えていたようです。

ゲルの研究全般ではなく、私の取り組む「ゲルの基礎物理の研究」については、世界でも日本でも、現在、取り組んでいる若手研究者は、自分と自分の周り以外にはほとんど思いつかないです。世界も日本も、2000年頃以降のゲルの研究は応用研究が主力で、新しい性質を示す面白いゲルを作ろうという研究が多いです。ゲルの物理のような基礎研究をやっても成果が出るかわからないし、そもそも基礎研究に関心を持つ研究者も少ないようです。2000年頃までにゲルの基礎物理の研究は一度廃れてしまったのですが、今の研究室の酒井崇匡教授がゲルの基礎研究を進めていたところに私が参画して、盛り上げていっているところです。逆に言えば、テトラゲルが開発された今、ゲルの基礎物理の研究はチャンスでもあります。取り組んだら面白いけど、やっている人がいないのです。自分では非常に良いポジションにいると思っていて、新しい発見を次々としていてすごく楽しいのですが、誰も周りにいないのは寂しいので、是非様々なバックグラウンドを持つ研究者に参入してほしいと思います。

応用研究と基礎研究ということでいうと、応用研究には研究費の支援が潤沢で、基礎研究にはやや支援が薄いという印象を持っています。私自身も、医療用の靭帯(じんたい)(けん)に使えるようなすごく丈夫なゲルを開発するという、応用研究の研究費で雇用されています。雇用元(JST−CREST)のアドバイザーの先生方から基礎研究も重視するべきだと言うと助言を頂いて、基礎研究を行えており、今回の「ナイスステップな研究者」の選定理由も基礎研究の成果です。

研究費で言うと、高分子分野のような日本が現在も国際的な競争力を持っている研究分野については、せめて優位性を失わない程度にはちゃんと支援していただきたいとは思います。このような優位性は何十年にもおよぶ先輩研究者達の積み重ねの結果なので、研究費の支援が滞って、せっかくの日本の強みが失われると、今後の挽回(ばんかい)はほとんど不可能になると思います。

- ここのところ、修士課程から博士課程への進学者数が低下しています。博士課程修了後の進路や処遇について不安を感じて、博士課程への進学を躊躇する学生がいる中、将来、研究者になりたいと考える若者たち、大学生や高校生に向けての言葉を頂けますか。

今回のインタビューの中で、この質問は一番答えづらいのですが、正直にお答えします。博士に進学するかどうかと、博士課程後に(大学等のアカデミアの)研究者になるかどうかで、アドバイスが真逆になると考えています。

まず博士課程は、意欲があるのに就職への不安で進学を迷っているだけなら、是非進学してほしいと思っています。理系だと、「修士卒の方が博士卒よりも就職に有利」だから博士課程に進学しないという意見があります。これは、新卒「1社目」の入社についてはある程度正しいのかもしれません。ところが、入社後のどこかの段階で転職を考えようとすると、社内でしか通用しないスキルは役に立たず、博士課程で身に付ける普遍的なスキルや物の考え方が役に立つことも多いようです。つまり、終身雇用で1社目の会社で最後まで行くなら修士卒でもいいかもしれないけど、ある程度スキルを身に付けて、転職していろんな仕事をやってみたい人は、博士まで行っても良いと思います。

一方、博士課程後に、大学等のアカデミアの研究者になることについては、ネガティブなことも言わざるを得ません。分野にもよりますが、アカデミアの研究者の競争は苛烈です。特に、今の30代前後より下の世代では、物理や数学の突き抜けたトップ層の人たちも、博士課程修了後はアカデミアには残らず、民間企業に就職することが主流になっています。先ほど述べた「数理の翼」では毎年、国際数学オリンピック、国際物理オリンピックの金メダリストや、歴代メダリストの中でも飛び抜けて優秀と言われているような日本のトップ層が参加します。私は彼らのその後のキャリアも知っていますが、日本の理系トップ層のほとんどが、博士課程修了後、外資系金融機関やコンサルなど、自分の専門とは全く異なる分野に民間就職をします。このように、将来、有名大学の教授になれる能力と意欲を持った若者がアカデミアに残らないことについて、私は日本の大きな損失だと思います。しかし、意欲的で優秀な研究者がアカデミアで相当な苦労をした挙げ句に35歳前後で民間就職する事例はこれまでにたくさん見てきました。私自身も、博士課程取得から10年たってもうすぐ40歳になりますが、単年度更新の任期付き雇用の身分で研究をしています。アカデミアへ進むにはある程度の覚悟は必要かと思います。

最後にポジティブなことも言っておくと、研究者という職業は非常に楽しいです。自分自身は、研究者になったことについて、今のところ全く後悔はしていません。それでもやってみたい人は、是非アカデミアの研究者になってほしいと思います。

(2022年8月26日オンラインインタビュー)


注1 数理の翼 https://www.npo-tsubasa.jp/

注2 内閣府 革新的研究開発推進プログラム(ImPACT)https://www8.cao.go.jp/cstp/sentan/about-kakushin.html

注3 第9回ヤマト科学賞 https://www.yamato-net.co.jp/award/detail/17/

注4 ブリヂストンソフトマテリアルフロンティア賞 https://www.srij.or.jp/newsite/about/awards/pdf/2022bsmaterial.pdf