STI Hz Vol.11, No.4, Part.9:(ほらいずん)研究力を育む土壌としての「研究文化」 -ヒューマン・フロンティア・サイエンス・プログラム(HFSP)の理念と実践から-STI Horizon

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  • DOI: https://doi.org/10.15108/stih.00419
  • 公開日: 2025.12.22
  • 著者: 冨田 英美、伊神 正貫、酒井 朋子
  • 雑誌情報: STI Horizon, Vol.11, No.4
  • 発行者: 文部科学省科学技術・学術政策研究所 (NISTEP)

ほらいずん
研究力を育む土壌としての「研究文化」
-ヒューマン・フロンティア・サイエンス・プログラム(HFSP)の理念と実践から-

科学技術予測・政策基盤調査研究センター 客員研究官 冨田 英美、センター長 伊神 正貫
科学技術予測・政策基盤調査研究センター/データ解析政策研究室 主任研究官 酒井 朋子

概 要

本稿では、研究力強化において研究者の内面的価値や研究プロセスにも注目して研究環境を整備しようとする国際的な潮流を踏まえて、ヒューマン・フロンティア・サイエンス・プログラム(HFSP)の事例を分析する。HFSPは1989年の創設以来、研究者の主体性・自立性の確保、国際的・学際的な共同研究の推進、次世代研究者の育成を通じて、31名のノーベル賞受賞者を輩出するなど卓越した成果を上げてきた。その成功要因は、予備実験データを求めない革新性重視の審査システム、異分野・異国の研究者による協働の仕組み、若手研究者が失敗を恐れず挑戦できる環境整備にある。更に重要なのは、これらの制度設計を支える「研究文化」の存在である。HFSPの事例は、日本の研究力強化において、定量的指標の追求だけでなく、研究者の価値観や行動様式を含む研究文化の醸成が不可欠であることを示唆している。

キーワード:研究文化,研究力,内的・外的価値,定性・定量評価,研究エコシステム

1. はじめに

日本の研究力の相対的低下が指摘されて久しい。論文数の国際シェアは2000年代初頭から低下を続け、現在は世界第5位、Top10%補正論文数では13位にまで後退している1)。この状況を打開すべく、我が国では研究力の強化を科学技術政策の重要課題のひとつとして位置づけ、様々な施策を講じてきた。しかし、日本の研究力は、相対的・長期的に低下傾向にある。なぜか。それは、研究力の本質が定量的指標のみでは捉えきれないところにあるからではないだろうか。

科学技術・学術政策研究所(NISTEP)では、2024年12月に「研究力再考:次の20年を見据えた『研究力を育む土壌』と共創の道」と題したシンポジウムを開催した2)。研究者をはじめ、研究助成機関(FA)専門職、大学リサーチ・アドミニストレーター(URA)、政策立案者が一堂に会し、研究力強化に向けた環境整備や体制構築について活発な議論が交わされた。その中で、研究力を育むためには、論文数や特許数などの「目に見える価値」だけでなく、研究者の主体性、協調性、失敗からの学びなどの「目に見えない価値」を大切にしていくことの重要性が確認された。

このように研究者の内面的価値や研究プロセスも重視し、研究環境を整備しようとする動きは国際的に広がっている。英国王立協会は、「研究文化(Research Culture)とは、研究コミュニティにおける研究者の行動、価値観、期待、態度、規範を含むもの」と定義し、これが研究の進め方や成果の発信方法を左右すると指摘している3)。ここで注目すべきは、「Culture(文化)」という言葉の語源である。Cultureの語源はラテン語のColereであり、「耕す」を意味する。古代ローマの哲学者マルクス・T・キケローは『トゥスクルム荘対談集』において「Cultura animi philosophia est(精神を耕すことが哲学である)」と述べ、物理的な耕作から精神的な修養への意味の転換を示している4~6)。この概念の歴史的発展についてはアルフレッド・L・クローバーら(1952)7)による包括的な分析があり、レイモンド・ウイリアムズ(1976)8)は現代の文化論の理論的基礎を築いた。日本においては藤垣裕子(2003, 2018)910)が科学技術と文化の関係を論じ、教養教育における「心を耕す」概念の重要性を指摘している(石井・藤垣 2016, 2019)1112)。このように考えると、研究文化とは研究者一人一人の「心を耕す」営みの集積として理解できる。

そこで我々は、研究文化の重要な要素(主体性、協働、多様性、包摂性)を長年にわたり体現してきたと考えられる国際的・学際的研究助成プログラムであるヒューマン・フロンティア・サイエンス・プログラム(HFSP)に注目し、令和7年度よりHFSPの次世代も含めた知的価値創出に関する調査研究を開始した。HFSPは1989年の創設以来、研究者の自由な発想を尊重し、異分野・異国の研究者による学際的・国際的な共同研究を推進してきた。その仕組みや運営上の特徴を整理し、定量と定性の両面から分析することで、真の研究力とは何か、それを育む土壌とはどのようなものかを明らかにし、我が国における研究力強化に資する示唆を得ることを目的とする。本稿では、HFSPの概要と制度的特徴を紹介した上で、特に定性的な側面に焦点をあて研究文化の醸成に関する示唆を掘り下げる。

2. ヒューマン・フロンティア・サイエン ス・プログラム(HFSP)とは?

1)沿革

ヒューマン・フロンティア・サイエンス・プログラム(Human Frontier Science Program:HFSP)は、1987年のヴェネチアG7サミットにおいて、中曽根康弘内閣総理大臣(当時)が提唱したことを機に創設された国際的な研究助成プログラムである。1980年代、急速な経済成長を遂げた日本は、自動車や電子機器等の輸出増加に伴い米国と貿易摩擦を引き起こすようになり、「経済大国日本による基礎研究成果のフリーライド」と批判されるようになった。このような状況の中で、1986年、日本が海外研究機関との共同研究を推進し基礎研究分野において貢献するための計画案が持ち上がった。当時科学技術外交に力を入れていた中曽根総理大臣は1987年6月に開催された第13回主要国首脳会議(ヴェネチア・サミット)において、ヒューマン・フロンティア・サイエンス・プログラム機構(HFSPO)を実行主体として国際共同研究を推進することを提案し、G7諸国と欧州共同体(EC)が賛同した。その後、2年にわたり各国のリーダーによりHFSPOの構想が練られ、1989年にInternational Science CommitteeによりHFSPOの組織、活動、研究領域、研究課題の審査プロセス等が策定された13)

2)運営組織

1989年にストラスブール(フランス)にHFSPを推進・運営するためのヒューマン・フロンティア・サイエンス・プログラム機構(HFSPO)が設立された。HFSPOの使命は、国際協力を通じて生命の複雑なメカニズムの解明に焦点をあてた基礎研究を推進し、人類全体の利益に貢献することである。当初のメンバー国は、日本、米国、英国、フランス、ドイツ、イタリア、カナダの7か国とECであったが、その後スイス、オーストラリア、韓国、ニュージーランド、インド、ノルウェー、シンガポール、イスラエル、南アフリカが順に加わり、現在では合計17か国・機関となっている。HFSPOはこれらメンバー国からの財政支援を受けて運営されている。

3)組織体制

HFSPOはフロンティア研究に助成を行う非営利機関であり、次の4つの組織から構成される。運営全般に責任を持つ「理事会(Board of Trustees)」、理事会に対して独立した科学的助言を行う「科学者会議(Council of Scientists)」、応募書類の審査・選考を行う「審査委員会(Review committee)」、そして事業の運営・管理を行う「事務局(Secretariat)」である。科学者会議は、審査委員会とは独立した組織として設置されており、HFSPの科学面での独立性と研究の自由を保つのに重要な役割を果たしている。

このほかに、3年に1度メンバー国のハイレベル代表による会議(Triennial Conference of the HFSP Members :TCHM)が開催され、長期戦略の検討や3年間の予算計画の策定を行っている。TCHMには法的な機能は付与されていないが、HFSPOの進捗状況やミッションの達成度を監視する上で、重要な役割を果たしている。

4)プログラム

HFSPは生物の持つ複雑な機能解明のためのフロンティア基礎研究を支援するプログラムである。対象は、遺伝子など分子から、細胞、組織、臓器、個体、集団に至るまで多岐にわたり、その生理機能や相互作用、メカニズムの解明など、生命の謎を解き明かす独創的な研究に対して助成を行う。本プログラムでは、物理、化学、数理科学、情報工学など異なる専門性を持つ研究者が新規手法や技術、理論概念を融合させ課題解決に挑む学際的な研究及び着眼点や考え方の異なる複数国(異なる大陸)の研究者との協働による国際共同研究の推進が推奨されている。

HFSPの主なプログラムには、研究グラントと博士研究員フェローシップ(図表1)がある。研究グラントは、革新的、学際的、国際的な共同研究を行うチームを支援するプログラムであり、若手を対象とした若手研究者グラントと、全ての研究者を対象としたプログラム・グラントとがある。いずれも2-4名の研究者から構成されるチームを支援している。一方、博士研究員フェローシップは、若手研究者に対して海外機関での研究の機会を提供するもので、長期フェローシップと学際的フェローシップがある。

図表1 HFSPの主要プログラム図表1 HFSPの主要プログラム

注)2025年9月19日の日本銀行報告省令レート(1米ドル=148円)をもとに換算
出典:各種ガイドライン14~16)を基にNISTEPにて作成
5)審査プロセス

ここではHFSPの旗艦プログラムである研究グラントの審査プロセスについて簡潔に説明する(詳細は図表2参照)。研究グラントの審査は2段階方式で行われる。

一次審査では、Letter of Intent(LoI)と呼ばれるA4サイズ一枚程度の研究概要をもとに、従来のピアレビューとは異なる3つの基準(革新性、学際性、共同研究の必要性)に基づき、審査委員会と選考委員会で順に評価を行い、二次審査へと進める研究課題を絞り込んでいく。一次審査には約4か月を要し、この段階で研究課題は10%程度に絞り込まれる。

一次審査を通過したチームは、Full Application (A4サイズ、20-30枚程度)と呼ばれる詳細な研究計画を記載した書類の提出を求められる。二次審査では、メール・レビューアと呼ばれる外部専門家も加わり、審査委員が4つの基準(独創性、共同研究の必要性、チーム構成と適性、リスクと実現可能性)に基づき評価を行う。その後、全審査委員がHFSPO本部のあるフランス・ストラスブールに一堂に会し、3日間にわたる慎重な協議の上、最終的に助成対象とする研究課題候補を選出する。2次審査には約7か月を要し、Full Applicationを提出したチームのうちの約30%がグラントを受賞する。LoIを提出したチームのうち、約4-5%のみが助成を受けることのできる非常に競争率の高いグラントである。

図表2 研究グラント審査プロセス図表2 研究グラント審査プロセス

出典:各種ガイドライン1718)を基にNISTEPにて作成

3. HFSPが体現する研究力を育む土壌

1)研究者の主体性・自立性の確保

ここでは、研究者の主体性・自立性の確保を、「研究者が外的圧力や制約に縛られることなく、自らの知的好奇心と創造性に基づいて研究テーマを設定し、探究できる環境と制度的保障」と定義する。

HFSPの研究グラントは、申請時に予備実験やデータを求めない点に大きな特徴がある。従来のピアレビューが実績や確実性を重視しうる傾向にある中、HFSPは研究者の自由な発想と挑戦的なアイデアを最優先している。一次審査では「革新性」「学際性」「共同研究の必要性」を評価基準とし、研究者が既存の枠組みにとらわれない視点で、リスクを恐れず挑戦できる環境を提供している。審査委員には「面白いか」「他のFAでは採択されないような新奇の発想か」といった観点での評価が求められており、研究業績についてもインパクトファクターではなく研究内容そのもので判断することが奨励されている。これにより、研究者は制度的制約や外的要因に左右されることなく、自立的に研究テーマを設定することが可能となっている。

さらに、HFSPOは国際的な非営利組織として、独創的な基礎研究の支援に特化している。各国のFAがそれぞれの国の科学技術政策や社会的ニーズに応じた研究支援を行う中、HFSPは国境や分野の垣根を越えた革新的な基礎研究に焦点を絞ることで、単一国の枠組みでは実現困難な国際的かつ学際的な共同研究の推進を可能にしている。これは各国FAでは担えない唯一無二の機能といえる。また、世界的に研究の社会的インパクトが重視される傾向が強まる中でも、HFSPは長期的視点に立った基礎研究の重要性を堅持している。将来のパラダイムシフトにつながる可能性を秘めた探索的研究を支援することで、短期的な成果主義では見落とされがちな革新的発見の土壌を守る貴重なプログラムとなっている。

2)国際的学際的な共同研究の推進(多様性、包括性、協調性の重視)

ここでは、国際的・学際的な共同研究の推進を、「異なる国籍、専門分野、文化的背景を持つ研究者が対等な立場で協働し、それぞれの強みをいかしながら新たな知の創造に取り組む研究体制とその支援システム」と定義する。

HFSPの研究グラントは「Science without Borders(科学に境界はない)」の観点から、国や分野の枠を超えたチームによる研究を支援している。応募者には、これまで共同研究の経験がない新しい研究者と協働、現在進行中の研究とは全く異なる研究構想の立案、そして生命科学の最前線を切りひらく挑戦が求められている。LoIの申請準備では、早い段階からチームメンバーを見つけ、綿密なディスカッションを重ねることが不可欠である。異なる考え方や専門性を融合させることで、誰もが思いつかなかったような独創的な研究構想へと磨き上げていく過程こそが、HFSPの目指す共同研究の本質といえる。審査においても、チーム構成は極めて重要な評価項目となる。具体的には、「この研究構想はメンバーの一人でも欠けたら成立しないか」「チームメンバーの強みの組合せによる相乗効果が期待できるか」といった観点から厳格に評価される。これらの要件は、既存の研究ネットワークへの依存を排し、新しい組合せによる革新的研究を促す仕組みとして機能している。

異なるバックグラウンドを持つ研究者の協働は、新しい概念や手法の創出につながる。日本において「学際」や「異分野融合」研究推進の重要性が本格的に提唱されたのは1996年であり19)、その後、年々複雑化する課題や地球規模課題の解決には複数分野の協働が不可欠という認識のもと、学際研究が活発化してきた。この点で、HFSPは1990年から一貫して学際的研究を推進してきた事実は特筆に値する。

3)次世代研究者の育成―研究に専念できる環境の提供

ここでは、次世代研究者の育成を、「若手研究者が短期的な成果や評価に追われることなく、失敗を恐れず挑戦的な研究に取り組める時間的・経済的・精神的余裕を保障する支援体制」として定義する。

HFSPは若手研究者の育成を重要な使命として位置づけている。研究グラントでは若手専用枠を設けているほか、全キャリアステージを対象としたプログラム・グラントにおいても、チームへの若手研究者の参画を積極的に奨励している。チーム内では、各メンバーがそれぞれの専門性をいかして対等に貢献することが期待される。若手研究者も階層的な関係に縛られることなく、フラットな環境で主体的に研究を推進できる仕組みとなっている。採択後は3年間にわたって中間評価はなく、一貫した潤沢な研究資金が提供されるため、短期的な成果圧力から解放され、失敗を恐れずに大胆な挑戦に専念できる環境が整っている。

さらに、HFSPは博士研究員フェローシップを通じて、博士号取得後の若手研究者に海外での研究経験を積む機会を提供している。特に注目すべきは「学際的フェローシップ」制度である。これは生命科学以外の分野出身者がライフサイエンス研究に参入することを支援するプログラムで、異分野からの新しい視点や生命科学に取り込む革新的な仕組みといえる。このようにHFSPは単なる研究資金の提供にとどまらず、若手研究者の自立性と独立性を育み、次世代のサイエンスリーダーを養成する包括的なプログラムとしても機能しているといえる。

4. 成果とインパクト

HFSPは創設以来、のべ1,280件の研究グラントを授与してきた。過去35年間に研究グラントを受賞した研究者の中からは、31名のノーベル賞受賞者が輩出されており、その成果は世界的に高く評価されている。

HFSP研究グラント受賞者の多くが、生命科学に革命的な貢献をしている。ジュール・ホフマン博士は、私たちの体が生まれながらに持つ病原体を撃退する仕組み(自然免疫)を解明し、2011年にノーベル生理学・医学賞を受賞した20)。エイダ・ヨナス博士は、細胞内でタンパク質を作る「工場」であるリボソームの詳細な構造を明らかにし、2009年にノーベル化学賞を受賞している21)

特に注目すべきは、2019年に研究グラントを受賞したデイビット・ベイカー博士である。ベイカー博士は2003年に世界で初めて計算によるタンパク質設計に成功し、自然界に存在しない全く新しいタンパク質を創製する革新的手法を確立した22)。2019年のHFSP研究グラントでは、分子機械の動作を3次元スケールで可視化する研究に取り組み、既存の安定状態の静的構造情報と、実験的に得られた原子間距離の動的データセットを統合することで、各反応時間点における高分子の3次元原子レベル構造を正確に予測する手法を発展させた23)。これにより、従来は解析が困難であったタンパク質の動的な構造変化や、複雑な分子の作動機構を詳細に記述することが可能となった。

こうした20年以上にわたる先駆的研究の成果が認められ、ベイカー博士は2024年のノーベル化学賞を受賞した。同賞は、タンパク質構造予測を革新的に変えたAlphaFold224)を開発したGoogle DeepMindのデミス・ハサビス博士及びジョン・M・ジャンパー博士と、計算によるタンパク質設計の先駆的研究を行ったベイカー博士の3名に共同で授与された。この受賞は、HFSPが支援した基礎研究が世界最高峰の科学的成果として認められた顕著な例として、HFSP研究プログラムの重要性を示している。また、ベイカー博士は画期的な研究に加え、HFSP の支援を受けた博士研究員を自身の研究室に迎え入れることで、次世代の先駆的な科学者の育成にも貢献している。

日本からは、1990年に研究グラントを受賞した本庶佑博士が、2018年にノーベル生理学・医学賞を受賞している。本庶博士は、PD-1(プログラム細胞死タンパク質1)という免疫にブレーキをかける分子を発見し、その機能を解明した25)。この発見により、がん細胞が免疫システムから逃れる仕組みが明らかになり、免疫の力でがんと闘う「がん免疫療法」という画期的な治療法の開発につながった。HFSP研究グラントは、このような挑戦的な基礎研究を早期から支援する重要な役割を果たしてきた。

研究グラント受賞から10年以内にノーベル賞を受賞している研究者が大半を占めている点は特筆に値する。このほか、医学分野の著名な国際賞であるガードナー国際賞を24名、ラスカー賞を13名の研究グラント受賞者が受賞している。これらの実績は、HFSPが「研究者の主体性・自立性の確保」「学際的・国際的共同研究の推進」「次世代研究者の育成」という要素を実際に支援することで、世界的に卓越した研究成果に貢献していることを示している。さらに、2022年にTechnopolis Groupが公表したHFSPの外部レビュー報告書において、当時の調査に携わり、現在メタサイエンス(科学の科学)の推進者として活動するピーター・コラルツ博士(ロンドン大学 Research on Research Institute(RoRI)プログラム統括責任者)らは、HFSPの成果は制度設計のみならず、関係者が共有する文化と理念によって支えられていることを明らかにした26)。同レビューは、HFSPに関わる全ての人々がその理念や価値観を深く理解し、活動のあらゆる場面で実践することによって、卓越した科学の追求(Research Excellence)を実現していると結論付けている。

5. 最後に

HFSPは創設から35年間、その使命を一貫して追求し、異なる国や専門分野の研究者が協力してフロンティア研究に挑戦する場を提供してきた。研究グラント受賞者からは31名のノーベル賞受賞者を輩出するなど卓越した成果を上げ、国際的に高い評価を得ている。しかし、この成功は制度設計のみによるものではない。HFSPに関わる研究者、審査委員、運営関係者が、多様性、公平性、包摂性、オープンサイエンス、持続可能性といった理念や価値観を共有し、日常的に実践していることこそが真の成功要因であると考えられる。すなわち、HFSPOは単なる研究助成機関ではなく、理念に基づいた「研究文化」を醸成することで、研究力を育む土壌を創出してきたといえる。

藤垣教授が指摘する「Culture=心を耕す」という概念1112)、そしてNISTEP公開シンポジウム2)でのマサチューセッツ工科大学の山下由紀子教授の「研究力を育む土壌」としての「Research Culture」という捉え方は、HFSPの理念と実践に見事に体現されている。HFSPは資金提供にとどまらず、研究者の創造性と主体性を培い、失敗を恐れず挑戦する精神を育む―正に研究者の「心を耕す」プログラムとして機能してきた。更に重要なのは、この「心を耕す」姿勢が研究者だけでなく、審査委員、事務局、そしてFAやURAなど研究支援に携わる全ての関係者に共有されている点である。HFSPの成功は、こうした研究エコシステム全体における「心を耕す」文化の醸成によってもたらされたといえるだろう。

今後、HFSPをモデルとして、我が国の研究実施における文化や価値観の在り方を掘り下げていく予定である。具体的には、定量調査と定性調査を組み合わせ、論文数等の既存指標では捉えきれない「真の研究力」を総合的に把握する手法を開発する。研究者へのインタビューを通じて「見えない価値」を抽出し、新たな指標として定量化することで、HFSPが実践してきた価値観を科学的に「見える化」していく。この取組により、研究者一人一人の創造性を最大限に引き出す研究エコシステムの構築に貢献したい。

参考文献・資料

1) 科学技術・学術政策研究所,科学技術指標2025,文部科学省 科学技術・学術政策研究所 調査資料-349, 2025年8月. https://www.nistep.go.jp/research/science-and-technology-indicators-and-scientometrics/indicators

2) NISTEP 公開オンラインシンポジウム 研究力再考:次の20年を見据えた「研究力を育む土壌」と共創の道
https://www.nistep.go.jp/archives/59293

3) The Royal Society Research Culture
https://royalsociety.org/news-resources/projects/research-culture/

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5) 山下太郎(2017)『ラテン語を読む―キケロー「スキーピオーの夢」』ベレ出版

6) 岡道男(2025)『キケロー 国家について 法律について』講談社学術文庫

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9) 藤垣裕子(2003)『専門知と公共性:科学技術社会論の構築へ向けて』東京大学出版会

10) 藤垣裕子(2018)『科学者の社会的責任』岩波書店(岩波科学ライブラリー279)

11) 石井洋二郎・藤垣裕子(2016)『大人になるためのリベラルアーツ:思考演習12題』東京大学出版会

12) 石井洋二郎・藤垣裕子(2019)『続・大人になるためのリベラルアーツ:思考演習12題』東京大学出版会

13) HFSP Annual Report Fiscal Year 2024
https://www.hfsp.org/node/75648#HFSP-annualreport_2024_web.pdf/

14) Application guidelines for HFSP Research Grants Award Year 2026
https://www.hfsp.org/sites/default/files/Sciences/Grants/LI%20Guidelines.pdf

15) HFSP Long-Term Fellowships: Application Guidelines Award Year 2026
https://www.hfsp.org/sites/default/files/Sciences/fellows/2026/HFSP%20Fellowships%202026%20-%20LTF%20Application%20Guidelines.pdf

16) HFSP Cross-Disciplinary Fellowships: Application Guidelines Award Year 2026
https://www.hfsp.org/sites/default/files/Sciences/fellows/2026/HFSP%20Fellowships%202026%20-%20CDF%20Application%20Guidelines.pdf

17) Reviewer Guidelines for HFSP Research Grants Award Year 2026 Letters of Intent
https://www.hfsp.org/sites/default/files/Sciences/Grants/RC-LI%20Evaluation%20guidelines.pdf

18) The Peer Review Process: Information and Instructions for Review Committee Members
https://www.hfsp.org/sites/default/files/Sciences/Grants/The%20Peer%20Review%20Process.pdf

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https://technopolis-group.com/report/organisational-and-process-review-of-the-human-frontier-science-program/

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