STI Hz Vol.8, No.1, Part.6:(ナイスステップな研究者から見た変化の新潮流)慶應義塾大学 理工学部化学科 准教授 畑中 美穂氏インタビューSTI Horizon

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  • DOI: https://doi.org/10.15108/stih.00283
  • 公開日: 2022.03.22
  • 著者: 大場 豪、蒲生 秀典
  • 雑誌情報: STI Horizon, Vol.8, No.1
  • 発行者: 文部科学省科学技術・学術政策研究所 (NISTEP)

ナイスステップな研究者から見た変化の新潮流
慶應義塾大学 理工学部化学科
准教授 畑中 美穂 氏インタビュー
-逆転の発想による近似計算方法の開発に至る経緯と応用-

聞き手:企画課 国際研究協力官 大場 豪
科学技術予測・政策基盤調査研究センター 特別研究員 蒲生 秀典

畑中美穂氏は、レアアース化合物の発光特性を決める4f軌道の性質に着目して、この性質を生かした近似計算方法「エネルギーシフト法」を開発し、レアアース化合物の励起状態からの失活過程における構造変化・エネルギーの変化の計算を初めて可能にした。この成果に着目した科学技術・学術政策研究所(NISTEP)は、2021年に「ナイスステップな研究者」の一人として畑中美穂氏を選定した。この方法を駆使することで、強発光体や、温度によって発光色が変わるセンサーなど、様々な発光材料の機能発現のメカニズムを明らかにし、得られたメカニズムの知見を基に、新しい発光材料の設計にも成功した。今回のインタビューでは、畑中氏に研究成果までの道のり、今後の展開そして若手研究者へのメッセージなどを詳しく伺った。

慶應義塾大学 理工学部化学科准教授 畑中 美穂 氏(畑中氏提供)

慶應義塾大学 理工学部化学科
准教授 畑中 美穂 氏(畑中氏提供)

1. 研究概要~エネルギーシフト法開発までの軌跡

計算化学分野の現状

私は、化学物質の性質をつかさどる方程式をコンピュータ上で解くことで、化学現象のメカニズムの解明や、機能性材料の設計を行っています。このような研究分野は理論化学・計算化学と呼ばれています。化学物質の性質をつかさどる方程式の一つに、シュレディンガー方程式がありますが、この方程式は、重い原子や複雑な分子に適用すると厳密に解くことができないので、近似的な解き方の開発が長年続けられてきました。一般的に、近似方法を考える際は、シンプルな原子や分子をターゲットにしてあれこれ考え、そこから複雑な系に拡張していきます。これまでの研究の積み重ねによって、水素原子から重い原子へ、原子から巨大な分子へと計算化学の適用範囲が広がってきました。実際に開発された計算方法を用いて、様々な化学現象のメカニズムが明らかにされてきています。しかし、まだ計算化学の力で解明できない現象もたくさんあります。例えば、触媒や光機能性材料、磁性材料には、金属元素を含む物質が多く使われていますが、これらの性質を計算化学の力で調べることは、今でも困難です。また、人工光合成をはじめとする生体分子を模した材料の開発が望まれていますが、光合成や窒素固定の鍵となる酵素には金属元素が多数含まれているため、現代のスーパーコンピュータを使ったとしても、メカニズムの完全な解明には至っていないのが現状です。

ランタノイドへの興味とエネルギーシフト法の開発

計算化学の力をもってしてもメカニズムが調べられない材料の中でも、私が特に強く興味を持ったのがランタノイド材料でした。周期表を眺めると、後ろの方(第6周期)に「はみ出ている」部分がありますよね?このはみ出た元素たちの総称がランタノイドです。ランタノイドを含む化合物は、触媒や発光材料、磁性材料など幅広い材料に使われていますが、産地が限られていることから、価格が国際情勢に左右されやすいという難点もあります。そのため、代替品が必要になったときに、少しでも速く開発できる環境を整えられるよう、ランタノイド材料の機能発現のメカニズムを理解することが不可欠です。

しかし、発光強度の計算は簡単ではありません。発光強度を計算するには、発光と熱失活の起こりやすさを見積もる必要があります。発光の計算は、蓄積されてきたノウハウがあるので何とかなりますが、熱失活の起こりやすさの計算は現在でも困難です。なぜなら、熱失活の計算には、失活に伴う材料の構造変化の追跡が不可欠だからです。このような計算は、小さな有機化合物でも骨の折れる作業であり、ランタノイド材料のような複雑な化合物の場合は、計算はほぼ不可能という状況でした。

ここで、材料開発者の気持ちを想像してみましょう。例えば、弱い発光を示す材料の情報しかない状況から、強い発光を示す材料を開発したい場合、まず何から始めますか?手あたり次第、材料を作ってみるという戦略は、時間とコストのどちらの面から見ても余り効率が良くありません。もしも発光強度が弱い原因がどこにあるか分かれば、原因となる部分を取り除くことで、効率よく材料を設計することが可能になりますよね。つまり、計算化学を駆使してメカニズムを調べれば、材料開発の大幅なスピードアップが期待できるわけです。

そこで、ランタノイド発光材料のための近似方法を作れないだろうかと考え始めました。今までの近似計算方法は、軽い原子から重い原子へ(周期表の上から下へ)拡張されてきましたが、逆走してみたら今までとは全く違う発想が出てくるのではないかともくろんだわけです。こうして出てきたのが、今回の受賞対象となったエネルギーシフト法という近似計算方法です。エネルギーシフト法の肝は、ランタノイドの4f軌道の電子(4f電子)の特殊な性質にあります。一般に、化合物の性質-例えば分子構造や光学特性-は、一番外側にある軌道の電子によって決まります。これに対し、ランタノイドの場合は、発光の原因となる4f電子よりも外側に5s・5p軌道の電子が存在します。そのため、熱失活における構造変化に4f電子がほとんど関与しません。そこで、熱失活における構造変化を追うことに主眼を置き、化合物の構造に関わらないランタノイドの内殻電子(4f電子も!)を“ポテンシャル”としてしまい(有効内殻ポテンシャルと言います)、計算から除外してしまいます。4f電子を計算から除外したことで、発光に関わる励起状態が計算できなくなってしまいますが、4f電子の性質を生かし、基底状態のエネルギーをシフトするだけで記述することにします。これによって、計算量が大幅に削減されたため、熱失活過程における構造変化の追跡が初めて可能になりました(図表1)。

図表1 エネルギーシフト法の概念図

4f電子を含む内殻電子を“有効内殻ポテンシャル”に置き換えることで、計算量を大幅に削減する。4f電子を露わに計算しないため、4f軌道内の電子遷移による励起状態は、基底状態を元に、エネルギーをシフトすることで近似的に表現する。

図表1 エネルギーシフト法の概念図4f電子を含む内殻電子を“有効内殻ポテンシャル”に置き換えることで、計算量を大幅に削減する。4f電子を露わに計算しないため、4f軌道内の電子遷移による励起状態は、基底状態を元に、エネルギーをシフトすることで近似的に表現する。

(畑中氏提供資料)
実用材料への適用

実際にエネルギーシフト法を用いることで、様々なランタノイド発光材料の機能発現メカニズムの解明や、新しい材料の設計が可能になりました。例えば、発光強度の弱いランタノイド化合物(図表2)の計算を行ったところ、C=N二重結合部分の局所的な振動が熱失活の原因となっていることが分かりました。そこで、C=N二重結合部分をC-NやC-O単結合に置換したところ、熱失活が起こりにくくなることが分かりました。つまり、熱失活の原因となる部分を置き換えるだけで、簡単に強発光体を設計できるようになったのです。他にも、温度によって発光色が変わるカメレオン温度センサーや、活性酸素の濃度に応じて発光強度が変わる生体センサーなど、様々な発光センサーのメカニズムの解明やセンサー設計に成功してきました。カメレオン温度センサーは航空機表面の温度測定に使われており、温度によって発光色が変わるメカニズムが分かったことで、望む温度範囲で色が変わるセンサーの設計も可能になっています。元々、エネルギーシフト法は、ランタノイド発光材料の計算に特化した近似方法でしたが、最近では有機光学材料の熱失活過程の近似計算にも応用できることが分かってきました。重い元素のための近似が軽い元素に拡張できたわけです。周期表を後から前へ逆走することで、今までとは違う発想が得られるかもしれないという考えはあながち間違っていなかったようなので、この視点は今後も大切にしようと思っています。

図表2 弱発光材料の熱失活における構造変化図表2 弱発光材料の熱失活における構造変化

(畑中氏提供資料)

2. 理論化学・計算化学分野に進んだ経緯

元々、様々な自然現象がなぜ起こるのかに強い興味を持っていました。高校までの化学は暗記科目の印象が強かったため、苦手意識があったのですが、高校3年生のときに様々な化学現象のメカニズムの理解に不可欠な量子化学という分野について聞きかじったことで、化学のイメージが一変し、理論化学を志すきっかけになりました。中学・高校の化学では、化合物の性質は、原子核の周りをまわっている電子のふるまいで決まると習います。まわっていると聞くと円運動のようなイメージを抱きがちですが、量子化学から導かれる電子のふるまいは、円運動とはまるで違う、全く不思議なものでした。この不思議な電子のふるまいを理解したい一心で、大学では化学系の学科に進学しました。化学系に進学した段階で、理論化学を志す気満々だったのですが、実は一度別の分野の研究をしていたこともあります。大学4年生のときは、実験の研究室に所属していました。実験もとても楽しかったのですが、新しい材料を見つけることよりも、材料が機能を持つ理由を明らかにすることに強い興味があることに改めて気付き、修士課程から理論化学の研究室に移りました。

3. 様々な教育・研究機関で研究をするメリット

大学院生時代に、米沢富美子先生(理論物理学者)の『二人で紡いだ物語』を愛読していました。この本の中で「研究環境が変わる度に新しい考え方を吸収できるので、柔軟に研究を広げていくことができた」という旨の記述があったため、5年に一度くらいのペースで研究機関を異動しながら、見識を広げていきたいと思っていました。実際に私は、博士課程修了後、京都大学に4年、近畿大学に2年、奈良先端科学技術大学院大学に3年、とせわしなく異動を繰り返してきました。本当は各機関にもう少し長く在籍したかったのですが、公募を見つけるたびに、次に公募が出るのはいつか分からないという不安を抑えられず、どんどん応募書類を出した結果、このようなキャリアパスになりました。若い人たちには、各機関にもう少し長く所属して、じっくり研究できる環境を作ることをおすすめしたいです。

いろいろな機関を渡り歩いたことで、良かったことがたくさんありました。一番良かったのは、幅広い分野の研究者と出会えたことです。京都大学では福井謙一記念研究センターという理論化学・計算化学の研究者が集まる研究所にいたので、理論や計算の知見を深めることができました。また、研究室のメンバーの9割が外国の方だったので、いろいろな文化に触れることができ、刺激的な毎日でした。近畿大学で所属した学科は、非常にアットホームで、実験系の研究室にも気軽に質問しに行ける雰囲気がありました。実験化学者の先生方との交流で見聞きした知識が、後々の研究の大きなヒントになっています。奈良先端科学技術大学院大学に着任したときは、情報系、バイオ系、マテリアル系の研究科を一つに統合するタイミングでした。全分野の学生に向けたマテリアルズ・インフォマティクスの講義や演習を設計するというミッションを受けたため、情報系やバイオ系の先生方と初めて深くお付き合いをするようになりました。今まで自分の研究には縁遠い印象があったロボット工学の最先端の研究成果を見せていただいたり、独学だった機械学習のアドバイスを頂いたりしたことで、自分の研究の幅がものすごく広がりました。現在は、母校である慶應義塾大学で研究室を主宰しています。研究室の学生たちから見ると、私は先生であると同時に先輩でもあります。私がいろいろな機関で学んだことを余すことなく伝えていくことで、私よりも大きく羽ばたいていってほしいと願っています。(と言いつつ、まだまだ若い研究者に負けてたまるか!と研究者としての闘志も燃やしています。)

4. 今後の研究の展望~機械学習の適用、そして量子コンピュータへ~

エネルギーシフト法を開発した後も、まだ計算できていない化合物が多数残っています。今までは新しい近似を作ることに注力してきましたが、最近は解釈可能な機械学習モデルを用いた研究にも取り組んでいます。機能性材料の分野は、データ数がそれほど多く存在しないので、機械学習モデルに化学的直感を上手に盛り込む戦略作りが不可欠です。ここに、今まで培ってきた近似のセンスが大いに生かされています。様々な材料の性質を、コンピュータ内で高速に計算できるシステムを作ることで、材料のハイスループットスクリーニングを可能にしたい。さらに、これを波及させることで、機械学習による“レコメンデーション”を元に実験計画を練ることや、ロボットと組み合わせた全自動実験システムを構築することが当たり前になるような環境を作っていきたいと思っています。

もう一つ、現在心血を注いでいるのが、量子コンピュータを用いた計算方法の開発です。元々、金属やランタノイドを含む化合物の高精度な計算方法は知られていたのですが、今のスーパーコンピュータでは大きな分子になると計算量が多過ぎるため、計算できていません。この状況を打破できると期待を集めているのが量子コンピュータです。量子コンピュータ(ハード)さえできれば、簡単に複雑な化合物の計算ができるようになるのかと思っていたのですが、量子コンピュータを上手に活用する計算方法(ソフト)の開発も不可欠です。どちらの分野も多くの研究グループがしのぎを削っている真っ最中です。量子コンピュータによる計算の結果は、計算(観測)するたびに結果が変わる―つまり計算結果にばらつきがある―という特徴があります。これは、今まで私たちが慣れ親しんできた古典的なコンピュータにはない特徴なので、従来の理論・計算化学の分野で培ってきた方法論とは全く別のアイディアが求められます。幸い、慶應義塾大学にはIBMの量子コンピュータに優先的にアクセスする権利があるだけでなく、量子コンピュータの研究に携わる多くのアカデミアと企業の研究者が集まっています。量子コンピュータを用いた様々な計算方法を学びつつ、今まで培ってきた化学的直感とうまく融合して、ランタノイド材料だけでなく、光合成や窒素固定などのメカニズムを明らかにし、次世代のエネルギー材料の設計に役立てていきたいと思っています。

5. 研究者を目指す学生や若手研究者へのメッセージ

今取り組んでいる研究内容が、10~20年後もずっと最先端であり続けるということはほぼありません。例えば、私の専門分野では、数年前から機械学習を取り入れた研究が増え始め、現在ではすっかり定着し、必修技術の一つになりました。量子コンピュータはまだほう芽期にありますが、今年度の学会での発表件数が急激に増えたことを鑑みると、ここから急速に広がっていくだろうと予想しています。このように、一つの研究分野の中にいても、外から新しい分野の風がどんどん入っていくので、自分自身も変わっていかなければなりません。新しい分野の内容をキャッチアップしていくのは大変ですが、この流れの中からイノベーションが生まれるのだと思います。そのため、一つの内容を深く学ぶだけでなく、特に頭の柔らかいであろう若いときから自分の分野とは少し離れた分野の勉強をする癖を付けていくと、将来大きく花開くときが来ると思います。是非、次世代を担う若い人たちには、幅広く勉強して頑張っていただきたいと思います。

(2021年12月15日オンラインインタビュー)


注 レアアース17元素のうちの15元素