STI Hz Vol.5, No.2, Part.1:(特別インタビュー)株式会社 三菱ケミカルホールディングス-取締役会長 小林 喜光 氏 インタビュー 社会課題に取り組む産業界の科学技術イノベーションの潮流と新しい時代を担う基礎研究・人材育成について-心・技・体を鍛える、本当の企業経営と国家価値のとらえ方-STI Horizon

  • PDF:PDF版をダウンロード
  • DOI: http://doi.org/10.15108/stih.00172
  • 公開日: 2019.05.27
  • 著者: 角田 英之、河岡 将行、手塚 茜
  • 雑誌情報: STI Horizon, Vol.5, No.2
  • 発行者: 文部科学省科学技術・学術政策研究所 (NISTEP)

特別インタビュー
株式会社 三菱ケミカルホールディングス
取締役会長 小林 喜光 氏 インタビュー
社会課題に取り組む産業界の科学技術イノベーションの
潮流と新しい時代を担う基礎研究・人材育成について
-心・技・体を鍛える、本当の企業経営と国家価値のとらえ方-

聞き手:総務研究官 角田 英之
科学技術予測センター 特別研究員 河岡 将行
企画課 係員 手塚 茜

近年、「持続可能な開発目標」(Sustainable Development Goals : SDGs)の達成に向けた研究開発の機運の向上や、オープンイノベーションの拡大などに代表されるように、科学技術イノベーション推進における産業界の取組は変化してきている。

株式会社 三菱ケミカルホールディングス(三菱ケミカルHD)取締役会長 小林喜光氏は、SDGsに先駆けて、持続的な社会の発展を目指した企業経営の在り方を提唱されてきた方の一人である。

本稿では小林氏に、長年企業経営に携わってきた御経験から科学技術イノベーションの推進に向けた産業界の取組について、また、経済同友会代表幹事、総合科学技術・イノベーション会議(CSTI)有識者議員を務められてきた御経験から、大学、公的研究機関等における基礎研究・人材育成の在り方についてお話を伺った。

小林 喜光 株式会社 三菱ケミカルホールディングス 取締役会長/公益社団法人 経済同友会 前代表幹事注1/総合科学技術・イノベーション会議 有識者議員

小林 喜光 株式会社 三菱ケミカルホールディングス
取締役会長/公益社団法人 経済同友会 前代表幹事注1
総合科学技術・イノベーション会議 有識者議員

- 日本の科学技術イノベーションの推進に向けた産業界の研究開発の取組について教えてください。

産業界全体の状況について

企業の研究開発そのものは、企業自体の存続という観点から直近の改良研究が中心で、かつ、かつて企業が中央研究所を持っていた頃に比べると、研究の深堀をすることは少なくなっている状況である。それでも一般的には、各企業の強い分野で、20年後、30年後の将来に必要とされるテクノロジーにつながる基礎研究に、今でもエフォートの2〜3割は割かれている。企業の強みを生かした長期スパンの研究開発を、各企業が大学や研究開発法人とのコラボレーションの下、産学官で協働して推進していくことが重要であると考えている。

三菱ケミカルHDにおける研究開発について

三菱ケミカルHDにおいては、私が研究開発担当の常務のとき、10年先、20年先の社会像からバックキャストして今取り組むべき課題を絞り込むプロジェクト(プロジェクト10/20)を担当した。その当時は、「Sustainability(環境・資源)、Health(健康)、Comfort(快適)」の3つが取り組むべきテーマのクライテリア(判断基準)になるだろうという結論に達し、軽量かつフレキシブルな有機太陽電池、パワー半導体向け窒化ガリウム基板、食糧問題解決に向けた植物工場システム、自動車、飛行機用の軽量化部材としての炭素繊維複合材、電気自動車時代を見据えたLi(リチウム)イオン電池材料や生分解性プラスティックなどの開発に注力した。しかし振り返ってみると、その頃力を入れたテーマとしてうまくいって利益を保っているのはLiイオン電池材料の電解液、負極材など一部の事業のみで、例えば炭素繊維複合材は40数年やっているが、いまだに収益性が高くないのが現状。

基礎研究に地道に取り組むことが大事

研究開発は企業においてさえ10年程度ではほとんど花は咲かず、事業という観点で言うと余り大きな成果が出ていない。例えば、老齢化社会対策、環境汚染対策などの社会的要請に応えるための基礎研究は、10~20年やって少しずつ脚光を浴びてきている。しかしながら、収益の面では先ほどの「Sustainability、Health、Comfort」という3つのクライテリアにより選択した研究テーマのうち、事業に結びついたのはわずかであるという現状がある。

ただ、そのような基礎研究の性質を理解した上で、企業においても、社会課題解決のための研究開発に取り組んでいるということを評価してもらいたい。

- そのような厳しい環境の中で、経営者のトップとしてどういったマネジメントをしていらっしゃるのでしょうか。

社会課題を解決する長期的なテーマのマネジメントについて

研究開発マネジメントで気を付けるべきことは、戦略的に実施している研究開発は、進捗度が一定程度以上であれば根気強く続けることが必要だということ。自社で取り組んでいる有機系の太陽電池では事業開発も含めて毎月2億円程度、窒化ガリウム基板の開発には累計300億円近く使っているが、まだまだ収益には結びついていない。炭素繊維複合材開発も40数年間ほとんど赤字である。しかし、米国流の2、3年やって成果が上がらなければ止めるということであれば、これらはもうプロジェクトとしては続いてはいなかっただろう。

大事なのはまず“What”を決めることであって、社会課題を解決するような長期的なテーマは、一度決めたら腹据えてやる、というマネジメントも必要。クールにすぐに成果の出ない課題を切っていっていたら、企業の社会的責任を果たすことはできない。撤退すべきかどうかは、最低でも年1回、ステージゲートの基準に照らして考えるが、収益性だけではなく、飽くまで研究開発の進捗を見て総合的に判断している。

思ったように進捗していない課題も幾つかあるが、それらの課題はすぐに止めるのではなく、何とか成果が出ないものかとあの手この手で現場を叱咤(しった)激励し、自ら研究開発の進捗を促すこともある。

本当の企業価値とは

企業経営において大事なことは、アスリートにも似ており、「心・技・体(体が強く、技術があって、心が折れない)」の3要素全てが備わっていることである。企業で言うと、「体」である利益を重視する軸(Management of Economics(MOE))、「技」であるイノベーション、フロンティアの開発を追求する軸(Management of Technology(MOT))に加えて、「心」であるサステナビリティの向上を目指す軸(Management of Sustainability(MOS):昔で言うCSR(Corporate Social Responsibility:企業の社会的責任)、今で言うESG投資(Environment(環境) / Social(社会) / Governance(企業統治)に対する投資)、SDGsなどを包含する)の3つの軸を大切にしていかなければいけないと思っている(図表1)。

企業価値はいまだに時価総額(株価)で判断されるが、本当にそうなのだろうか。企業経営はただ(もう)ければよいのではなく、新しい技術を社会に出して世の中に役に立つ、ということも重要な観点である。また昆虫が40%も絶滅していたり、CO2を2050年までに80%減らす必要があったり、地球がこれだけ悲鳴を上げている状況を企業体として許してはいけない。本当の企業価値とは、事業を通じて社会、あるいは地球のために何ができるのかという「心」の部分を含めた「心・技・体」の各要素の総和として表されるものではないか。それを当社では「KAITEKI価値」、その価値向上を目指す経営を「KAITEKI経営」と呼んでいる。国家価値も同じであり(図表2)、経済価値(GDP)の増加を志向する「体」の軸と、テクノロジー、イノベーション実現による「技」の軸、財政の健全化、教育、社会保障、安全、安心、防衛などのサステナビリティ向上を目指す「心」の軸、の3軸によって解析すると分かりやすい。

図表1 三菱ケミカルホールディングスの「KAITEKI経営」図表1 三菱ケミカルホールディングスの「KAITEKI経営」

出典:株式会社三菱ケミカルホールディングスHP掲載資料を基に、三菱ケミカルホールディングスにて追記修正

図表2 3次元解析による国家価値の最大化図表2 3次元解析による国家価値の最大化

出典:公益社団法人経済同友会「Japan 2.0 最適化社会の設計 −モノからコト、そしてココロへ−」、2018年12月

- SDGsの先駆けとも言える「心」の軸、つまり以前から三菱ケミカルHDが提唱しているMOS(Management of Sustainability)の概念を着想した経緯を教えてください。

イスラエルへの渡航がきっかけに

新しい着想を受けるきっかけになったのは47年前、自身の研究者時代にイスラエルに留学したときの経験が大きい。ユダヤ人と日本人の違いを強く感じた。イスラエルは一神教、日本は多神教などという文化の違いもあるが、地理的にも大きな違いがあり、イスラエルは砂漠の民、遊牧の民、常に隣国からの侵略・闘争の危機に(さら)されている状況なのに対し、日本人はユーラシア大陸の端っこの島国で育った極めてお坊ちゃん的体質があると思う。ユダヤ人の人口は全世界で1,400万程度、世界人口の0.2%程度だが、ノーベル賞受賞者は全受賞者数の23%を占め、単純計算で人口比の100倍以上の確率で受賞していることになる。その理由は何か、多くのユダヤ人が暮らすイスラエルにて現地のユダヤ人を見て学びたいと思った。

今でも強烈に記憶に残っているのは、蜃気楼(しんきろう)の砂漠の中を黒いヤギを2匹つれた黒いショールをまとったアラブの女性が歩いている風景である。造形として美しく、今でも自身の頭に焼き付いているが、存在とは何か、そして生きるということの意味を考えさせられた。また、常に生命の危険に(さら)されている状況下で、目の前の命題に全力で取り組むイスラエル人のハングリー精神にも触発され、自分も生きている間くらい頑張ろうと、目の前の命題に全身全霊で立ち向かうようになった。

三菱ケミカルHDの社長としてビジョンを打ち出す立場に

その後、三菱化成工業株式会社(現三菱ケミカル株式会社)に入社し、ほどなくして新しいサイエンスに挑戦することとなった。まず、石油化学の触媒研究から始まったが、時代の方向性から、明らかに次なる風を求めて行動すべきだという思いだった。当時は、化学は情報電子系とバイオ系に貢献できるだろうという話があったが、担当したフロッピーディスクや光ディスクの研究・事業開発は思うように結果を出せておらず、累積で1,000億円程度の赤字になっている状況だった。

その状況を改善するために、三菱化学メディア株式会社(現三菱ケミカルメディア株式会社)の社長として、素材開発と市場戦略の部分は自社にて直接管理運営し、製造の部分は海外(台湾、韓国、インド)に全て委託するというスマイルカーブのビジネスモデルを構築した。それが功を奏し、結果としてROS(Rate of Sales:売上高利益率)5%以上を達成することができたのだが、企業として利益を追求するだけで良いのか、との疑念は常に心の隅に存在していた。では何を求めるべきなのか。この想いが先に述べたプロジェクト10/20などの活動を通じて徐々に形を成していき、2007年に三菱化学株式会社(現三菱ケミカル株式会社)の社長に就任した際、MOSという概念を提唱するに至ったのである。

- オープンイノベーションの相手としての大学、公的研究機関に対するお考えをお聞かせください。

三菱ケミカルHDにおける大学との連携の試み

これまでの主な連携先は米国であった。マサチューセッツ工科大学のジョージ・ステファノポーラス教授やカリフォルニア州立大学サンタバーバラ校(UCSB)のグレン・フレデリクソン教授を当時の三菱化学や三菱ケミカルHDのCTOとして招いている。また、UCSBとは2000年頃から毎年2、3億円規模の共同開発を行ったり、大学内に三菱化学先端材料研究センター(MC-CAM)を作ったりなど、共同研究のみでなく人材育成も含めて積極的な交流を行ってきた。しかしながら、今のところ具体的な成果ははっきり言って何も出ていないというのが正しいだろう。日本でやっても結果は同じだったかもしれないが、米国だから良いわけではないという厳しい現実を10数年かけて学んだ。

企業の研究開発は時間との闘い

研究は成果を出すまでに時間がかかり、他者からは悠長に見えることもあるが、研究を行わないと新しいものを生み出せない。確率として10%も出ればものすごい打率だと思うのだが、それをなかなか理解してもらえないところがある。

研究の基盤となる論文の産出は大部分を大学が担い、産業界の場合はどちらかと言うと特許が主であるが、特許を申請してもすぐに企業の収益につながるわけではないという現状がある。特許を取るまでの1年間くらいの間に技術はあっという間にバージョンアップしていくし、特許を取得・維持するのにかかるコストを収益で賄うのは難しい。むしろ特許を書くのではなく、「この技術を使わないと世界標準の製品は作れない」というような標準化をうまく絡めたビジネスモデルを、時間との闘いの中で作る必要がある。そのため、研究開発はマラソンではなく100m走の連続だと思っている。そのくらいの気分でやらなければ勝てないのに、最近の日本はたるんでいるように見える。これでは勝てるはずがない。

大学・公的研究機関に対する期待

大学や研究機関に対する期待としては、論文の数だけを気にするのではなく、アウトカムをきちんと考えて社会課題に対して挑戦する気概が欲しいということ。これは産業界に対しても言えるが、クラッシックな手法だけでなく、新しい手法に取り組んでいってほしい。時代はデジタル化に向かっており、化学分野で言えば有機合成で試験管を振るような古典的な手法だけでアプローチしていても新しい成果は何も出てこない。統計や数学の能力を使いながら、しかも計算化学などで演繹的にやるだけではなく、AIやビッグデータを使った帰納的な方法を取り入れて新しい分子設計をやるなど、時代に合った方向に基礎研究を変えていかなければならないと思う。

- 大学が今後新しい手法にも積極的に取り組むように変わっていくためには、何が必要とお考えですか。

より横断的・戦略的な取組を

セレンディピティ的なものを追い求めるのではなく、データ、統計手法、合成手法など様々な要素について詳しい人が横断的に集まって、テーマに取り組みやすい環境を作るのが大事。加えて、大学全体としても戦略的な資金配分をしていくべきで、伝統的な研究、共通インフラの整備などに対する投資も行いつつ、外からお金を取るような魅力あるテーマを提案して、産業界からもお金を出したいと思わせるようなIR(Investor Relations:投資家に向けて今後の見通しなどを広報すること)活動が必要。(こけ)のむしたような研究にしがみつくのではなく、横串の研究をやっていかなければ突破口が見えてこない。

- 大学の果たす人材育成における課題は。

現状に満足せず、危機感を持て

ある大学の先生が、大学生のレベルが落ちていると嘆いているが、これが一番の問題。その最も大きな要因は受験勉強にあると感じている。スマホで全てのデータが出てくる時代に、知識だけを問うても仕方ない。現在、受験についての議論が活発になされているとはいえ、自分の頭で考える能力を問うようなつくりに変えなければならない。

内閣府が実施した「国民生活に関する世論調査」(2018年6月)1)において、現在の生活にどの程度満足しているかという設問に対し、「満足している・まあ満足している」と答えている人の割合は全体の74.7%、18~29歳の若者に限っては83.2%に上るというデータがある。現状に満足しているようでは、甘やかされすぎて勉強するわけがない。そのような状況では、シリコンバレーや韓国・中国などをはじめ、熾烈な競争が繰り広げられている他国には勝てないのではないかと思い、危機感を訴えているがなかなか伝わらない。最近出版した「危機感なき()でガエル日本(中央公論新社、2019年3月)」にも書いたのだが2)、みんなが満足して、夢もなく今の幸せを他者に煩わされたくないという国で何かできるはずがない。このままでは日本は五流国になってしまう。

“What”の議論ができる人材を育成せよ

中国製造2025、米国国防高等研究計画局(DARPA)等の研究開発資金規模と日本のそれを比べると見劣りしてしまうのは財政・社会状況上仕方ない。研究のアイテム、ターゲットをいかに選択して絞り込むか、比較劣位ではあるが日本が強いところをどう強くするか、すなわち“How”よりも“What”を議論すべきだと思う。“What”の課題設定が正しければ、時間がかかったとしてもその成果は生きてくる。今は“How”ばかりが議論され、皆平準化してしまっているので、教育においても得意な分野を伸ばしていくという工夫が必要。

根源的には「心」の問題

産業界ではコーポレートガバナンスコード、スチュワードシップコードの変革により、社外取締役を入れるところが増えてきた。大学のガバナンスにおいてもキャンパスの中の教授のみではなく、民間のマネジメント経験者を理事として入れたり、プロボスト制を採用したりしていく工夫が必要なのではないか。そういう議論は各方面でさんざんなされているので、あとは実行するだけのように思う。

ただ、制度面の議論もさることながら、一番根源的な問題は心の面にある。日本が世界の中で比較劣位に置かれているという現状を認識し、大学、産業界という枠を超え世界の中で勝っていくという上向きな思考を共有できるか、という観点が今後の日本の立ち位置を左右する。昔の学者は(かすみ)を食ってでも自分のやりたいことを貫くという気概を持っており、そのように一人一人がガッツを持ってやろう、勉強しようという気概が必要。

- 本誌の読者に向けてメッセージをお願いします。

将来を見据えて、夢を持って自分の最も強いところをベースとして、何に取り組んでいくか、というのを常に考えながら、研鑽あるのみ、ではないでしょうか。

- 小林会長、お忙しい中貴重なお話をありがとうございました。

2019年3月26日 株式会社 三菱ケミカルホールディングス 本社ビル(大手町)にて 左から、手塚、角田、小林取締役会長、河岡

2019年3月26日 株式会社 三菱ケミカルホールディングス 本社ビル(大手町)にて
左から、手塚、角田、小林取締役会長、河岡


注1 インタビュー当時は代表幹事(2019年4月26日退任)

参考文献

1) 内閣府 「国民生活に関する世論調査(平成30年6月調査)」、2018年8月、
https://survey.gov-online.go.jp/h30/h30-life/index.html

2) 小林喜光 監修/経済同友会 著「危機感なき茹でガエル日本 過去の延長線上に未来はない」中央公論新社 2019年3月