生体の遺伝子発現制御機構である エピジェネティクス研究の最近の動向

伊藤 裕子
ライフサイエンスユニット

1.はじめに

 一般にはまだあまり馴染みは無いが、最近、「エピジェネティクス(epigenetics)」という研究領域の名称があちらこちらで聞かれるようになってきた。エピジェネティクスは、「ゲノム変異以外のメカニズムで遺伝子発現を制御し、細胞や生体に変化を生じさせる現象」と定義される注1、2)(図表1)。

 この研究領域が目にふれるようになったのは、ゲノム解読からゲノムの機能・制御の解明へとライフサイエンス研究の主流が移り、それ以前から遺伝子の転写調節機構の研究をしていた研究者、染色体やRNAなどの挙動を研究していた研究者、疾患の原因遺伝子について研究していた研究者、発生や再生を専門とする研究者などが、「遺伝子発現制御機構の解明」のためにお互いの情報交換を通じて結集し始め、それによりこの研究領域がまるで新興領域のように浮かび上がってきたことによる。つまり、ジグソーパズルのピースがいくつか入った(研究が進展した)ために、パズル面に大きな大陸の絵が描かれていることに研究者達が気付いた、とも言える。

 このエピジェネティクスの新大陸は、多くのライフサイエンス分野の研究領域に横断的に関連し、生物の発生・分化から、環境汚染物質の生体影響、ヒトの生活習慣病発症のメカニズムの解明や治療のための創薬研究など、幅広い研究領域をカバーしている。

 がん研究領域のエピジェネティクス研究については、2003年の本誌『科学技術動向』で一度取り上げ た1)。しかし、その後6年間で、エピジェネティクス研究が様々な研究領域に発展し、さらに国際的な共同プロジェクトの必要性が提唱されるようになるまでに研究活 動が高まってきたことを受け、再度、エピジェネティクスの研究動向に焦点をあてることにした。したがって、本稿ではエピジェネティ クス研究における最近のトピックスを紹介し、その意義と重要性および今後のエピジェネティクス研究への期待を示す。

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2.エピジェネティクスの具体例

 一卵性双生児は、ゲノムの遺伝情報が同じであるのにもかかわらず、その身体的特徴および性格や嗜好に違いがあり、さらに、病気の発症の有無や症状の程度に差が見られることが知られている。しかも、これらの両者の“違い”は、幼少期には小さく、成長するに従って大きくなる。また、動物では、ゲノムが同一であるにもかかわらず、元の動物の毛色や模様のパターンがクローン動物に受け継がれないことが知られている。可愛がっていた三毛猫のクローンをつくることを試みても、誕生したクローン猫は似ても似つかぬパターン模様の二色の毛色のネコになってしまうということである5、6)(図表2)注3)。これらは全てエピジェネティクスの身近な例である。

 また、生物は発生・分化の各段階において、必要なゲノムの遺伝子を発現させ不要な遺伝子の発現を止めるという厳密な調節を行っている。この調節、すなわち遺伝子発現の制御により、同じゲノムを持つ細胞が心臓や肺や脳神経など形も機能も異なる組織や臓器に分化し、その状態のまま体内で長く維持される。これもエピジェネティクスの例である。

  さらに、エピジェネティクスは病気にも関係している。エピジェネティクスには可塑性があり、一度決定された遺伝子発現の状態が、環境や生活習慣などの外部からの刺激や老化などの影響を受けて変化し、通常とは異なる遺伝子発現の状態になることがある。これは“エピジェネティクスの破綻”と呼ばれ、がんなどの病気の発症と深く関連している。

 一方、このような可塑性は、病気の治療に利用できるのではない かと考えられ、異常な遺伝子発現を正常な遺伝子発現の状態に戻すといったエピジェネティクスに関する基礎研究が進められている。また、再生医学でもエピジェネティクス研究の発展が期待されている。再生医療で利用されるES細胞やiPS細胞のような全能性をもつ細胞(どの組織や臓器にも分化できる 細胞)から、目的の細胞や臓器を自由に作製(カスタマイズ)するためには、エピジェネティクスについてのより多くの進んだ知識が必要になるからである。

 エピジェネティクスにおける遺伝子発現のメカニズムには、代表的な「ゲノムDNAのメチル化」以外にも様々なものが知られている注4)。 このメカニズムにはまだ不明な部分も多く、解明研究も活発に進められている。

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3.エピジェネティクスに関する研究は活発化している

 ここでは、近年の論文数や研究コミュニティの活動状況などから、エピジェネティクス研究が活発化している様子を示す。

3-1 エピジェネティクスに関する論文数

 エピジェネティクスに関する研究は、ここ10年程度の期間にどの程度、規模を拡大したのか?世界や日本の研究状況はどうなのか?

 それらを示すために、キーワードによる論文検索を実施した。データベースはISI web of KnowledgeのWeb of Science(THOMSONREUTERS 社)で、検索キーワードはepigen*である。期間は、2000〜2008年で、この間に発表された論文(ArticleまたはReview)が対象である。論文数の経年変化・国ごとの論文数・研究領域別の論文割合・著者の所属別の論文数を、ISI web of Knowledge のAnalyzeResultsの機能を利用して図表化した。

(1)論文数の変化

 2000年から2008年までのエピジェネティクスに関する論文の総数は、10,110報であった(2009/02/23現在)。時系列で変化をみると、 2004年からの論文数の伸びが顕著である(図表3)。

(2) 国別の論文数

 論文を国別でみると(図表4)、米国が突出して論文数が多く、全体の半分近くを占める。一方、日本の論文数は米国に次ぐ2位であ るが、全体の10%程度の論文数(1,072報)であり、ドイツや英国と同程度である。

(3) 研究領域別の論文の割合

 図表4において論文数の多い米国・日本・ドイツ・英国において、研究領域別の論文の割合(%)の上位10領域について比較を行った (図表5)。

 その結果、4カ国に共通して、「生化学&分子生物学」、「腫瘍学」、「細胞生物学」、「遺伝学」の論文割合が高いことが示された。特に、米国 とドイツは類似した論文割合のパターンを示し、日本や英国には挙げられていない研究領域である「バイオテクノロジー&応用微生物」 の論文が含まれる。一方、日本では「腫瘍学」の割合が他の3カ国と比べて高く、「生物物理学」や「生殖細胞学」が特徴的な研究領域である。また、英国では「植物科学」や「内 分泌&代謝学」が特徴的な研究領域である。このようにエピジェネティクス研究は、幅広いが、各国でそのポートフォリオにやや違いがある。

(4) 日本の研究機関

 日本でエピジェネティクス研究を担っているのはどこの大学・公的研究機関だろうか?

 図表6に、2000〜2008年の日本のエピジェネティクスに関する論文1,072報について、論文著者の所属する研究機関を示した。大学としては東京大学、京都大学、および札幌医科大学の論文数が多く、公的研究機関としては、国立がんセンター、(独)理化学研究所、国立遺伝学研究所、愛知県がんセンターの論文数が多い。しかし、全般的には地域に偏ることなく様々な大学や公的研究機関でエピジェネティクス研究が実施されている。

3-2 研究コミュニティの活動状況

 近年、欧米や日本において、エピジェネティクスに関する研究コミュニティの活動が活発になってきている。以下に代表的な例を示す。

(1) 米国における大規模な研究会合の開催 〜米国から国際共同プロジェクトへ〜

 米国におけるエピジェネティクスに関する大規模な研究会合として、2003年に開催された第69回コールドスプリングハーバーシンポジウム注5)「ホモサピエンスのゲノム」がある7)。ゲノムが同じでもエピジェネティクスが違うことを暗喩するように、抄録の表紙において、一卵性双生児の少女の写真が使用され、多くの研究者の関心を引いた。会議名からは、ヒトを対象にした研究会が想像されるが、実際には、ヒトのモデル生物である酵母や線虫、ショウジョウバエ、植物(シロイヌナズナ)、マウスに関するエピジェネティクス研究についての発表が大部分を占めた。

 また、「エピジェネティクス」を会議名とするゴードン研究会議注6)が1995年から2年ごとに開催されている。公開されている2007年の会合のプログラムをみると、従来発表の中心だったモデル生物を用いたエピジェネティクスによる遺伝子制御のメカニズムに関する研究とともに、ゲノム上のどこの位置にエピジェネティクスが生じているのかを解析する「エピゲノム解析注7)」やヒトの疾患に関するエピジェネティクスについても発表されたようである8)。2009年8月にも会合が予定されており、今回は、「行動、健康、疾患における環境とエピジェネティクスの役割」という副題がついていることから、今までよりも、ヒトの疾患や環境影響に関する研究テーマが増えるのではないかと考えられる9)

 さらに、米国がん研究会議(American Association for Cancer Research)の“ヒトエピゲノムタスクフォース”は、2005年に「ヒトエピゲノムワークショップ」を開催し、2006年にはフォローアップワークショップとして、ヒトエピゲノムのマッピング注7)に関する国際共同プロジェクトの計画立ち上げに焦点を絞った会合を開催した10)。その会合において、国際的な専門家グループであるAHEAD(The Alliance for the Human Epigenomeand Disease)の構築の必要性が提唱された。2006年のタスクフォースのメンバーは29名であり、米国以外に、英国、スペイン、オランダなどの欧州の専門家や、日本、中国、韓国、シンガポールのアジアの専門家が含まれている。米英が主導的だったヒトゲノムプロジェクトと比較すると、発足時からアジアの各国が関わるなど、より国際的なプロジェクトに発展しそうである。ゲノムに比べ、エピゲノムは解析の対象とする情報の量がはるかに多いため、多くの国の協力が必要と考えられている。

(2) EUにおける大規模な研究ネットワークの構築

 EUは、研究開発支援制度であるフレームワークFP6(2002─2006年)のプロジェクトとして、12.5Mユーロを投入し、Epigenome Network of Excellence(NoE)を2004年に設立した11)。NoEは、エ ピジェネティクス研究コミュニティに対して明確に研究上の利益をもたらすことを目的とし、学会やワークショップ、研修、リソースの共有について支援している。実施期間は2004〜2009年であり、FP7(2007─2013年)でも資金の支援が継続されている。

 現在、NoEには英国、フランス、ドイツ、スペイン、オランダ、ベルギー、スイス、イタリア、オーストリア、クロアチア、デンマーク、スウェーデンの12カ国の46の大学や研究機関(83の研究グループ)が参加し、巨大なエピジェネティクス研究ネットワークを形成している。また、世界中の350の研究 グループが、NoEのウェブサイトを通じて、現在実行中のEUの研究プロジェクトに参加している。

(3) 日本におけるエピジェネティクス研究コミュニティの組織化

 日本エピジェネティクス研究会(The Japanese Society for Epigenetics) が2006年12月に設立され、2007年以降毎年、年次大会が開催されている。研究会設立の目的は次の通りである:「エピジェネティクス研究者が対象とする生物は、酵母から植物や哺乳類に至るまで幅広いため、研究者は多くの学会(日本分子生物学会、(社)日本生化学会、日本癌学会、日本発生生物学会、日本遺伝学会、(社)日本植物学会、日本人類遺伝学会、日本神経化学会、日本細胞生物学会、その他)に散在してエピジェネティクスの研究を行うという状態が続いていた。様々な学会を基盤とする研究者をエピジェネティクス研究のもとに横断的に統合して、情報交換の場をつくることが研究の推進に欠かせないと考えて、研究交流を促進することを目的として設立した」(日本エピジェネティクス研究会のホームページより)2)

 さらに、日本環境変異原学会(The Japanese EnvironmentalMutagen Society)の有志が集まり、エピジェネティクスをキーワードとして種々の毒性事象を討議する場として、環境エピゲノミクス研究会(Environmental EpigenomicsSociety)を2008年12月に設立した。環境要因と遺伝子発現との相互反応を研究する環境エピゲノミクスの重要性が、毒性学や臨床医学などで認められつつあることが設立理由とされている12)

 また、エピジェネティクスの産業応用に向けた技術的課題を明らかにすることを目的として、(独)新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)の委託を受けて(社)バイオ産業情報化コンソーシアムは、「エピジェネティクスに関する研究動向および産業応用への課題に関する調査」研究を2007年度に実施し、2008年2月に報告書が発表された3)。この調査研究では、産学の委員(エピジェネティクス分野を代表する研究者を含む)による調査委員会が設置され、委員会での講師の講演や討論を基に、考察や提言が行われた。その結果、エピジェネティクスの技術的な課題が7つの学術・応用領域に集約され、それぞれ実用化に向けた距離と将来的な重要性が示された(図表7)。「実用化に向けた距離」の項目において 「△(実用化は遠い)」が多くみられた(10課題)。これらは、現時点では、 エピジェネティクス研究において、基礎研究の段階にある課題と考えられる。これらの課題については、基礎研究を推進することが次の技術開発へのブレークスルーをもたらすと考えられる。

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4.エピジェネティクス研究で何がわかるのか?

 エピジェネティクス研究で何がわかったのか、今後、何がわかるのかについて示す。

4-1 エピジェネティクス生物研究

(1) 哺乳類の誕生の謎がわかる

 「哺乳類の発生にはなぜオスとメスが必要か」は生物学においての謎の一つである。昆虫、魚類、爬虫類、 鳥類などの一部にはメスだけで子孫をつくるという単為生殖の例が知られているが、哺乳類では有性生殖のみで、単為生殖は自然界では報告されていない。

 哺乳類の発生には、オス(精子)とメス(卵子)の両方の遺伝子が必要であり、オス由来の遺伝子のみ、あるいはメス由来の遺伝子のみでは、胚(受精卵であって胎盤を形成する前のもの)の形成は生じても発生は進まず、個体は形成されない。実は、正常に発生した胚をみると、オス由来とメス由来のゲノム上のエピジェネティクス(DNAメチル化)のパターンが異なっており、このように“エピジェネティクス的に異なっている”ゲノムを2つ組み合わされることが哺乳類の発生に重要である、ということが現在までにわかっている。このことは、片方の卵子をオスのエピジェネティクスパターンに改変して、2匹のメス(卵子)のみで子マウスを誕生させることができたという2004年の研究報告13)で明らかになった。 今後は、なぜ、哺乳類において単為生殖が妨げられるようなメカニズムが発達したのか、についての研究が進展すると思われる。

(2) 哺乳類の進化がわかる

 エピジェネティクスのうち、ゲノムDNAのメチル化は、植物、昆虫、魚類、鳥類、哺乳類など広い生物においてみられるが、父母由来の遺伝子を区別するゲノムインプリンティングは、哺乳類の中でも、胎生の哺乳類のみにしか見られない。つまり、卵で生まれる哺乳類であるカモノハシではゲノムインプリンティングはみられない。

 また、胎生の哺乳類の中でも有袋類であるカンガルーやコアラと、それ以外のヒトやマウスなど(真獣類)はゲノムインプリンティングに関わる遺伝子に違いがあり、有袋類と真獣類の共通の祖先が進化上でカモノハシと分かれた後にゲノムインプリンティングに関する遺伝子を獲得し、その後に有袋類と真獣類は分かれて、独自のゲノムの進化をとげたと考えられている14)。このように、エピジェネティクスの分析により、哺乳類の進化の道筋が明らかになることが示された。

(3) 植物の本質を知る

 本稿では動物の研究を中心に紹介したが、もちろん、植物(シロイヌナズナ)のエピジェネティクスの研究も進んでいる。シロイヌナズナはエピジェネティクス(DNAメチル化)に関連する遺伝子の変異体を作成しても、動物のように致死にならないので、様々な形質(葉や花粉などの形態が正常と異なる)を 示す変異体が作成されて研究が進められている。また、アサガオ、イネ、コムギについても研究が実施されている。

4-2 エピジェネティクス疾患研究

(1) がん発症の理解

 様々な種類のがんの細胞において、複数のがん関連遺伝子上にDNAメチル化の異常がみられることは1990年代頃から多くの報告がなされており、がん発症とエピジェネティクスの関係に注目が集まっている。

 特に、胃がんはエピジェネティクスの関与が大きいがんといわれている。胃がん発症のリスクを高める要因の一つにヘリコバクター・ピロリ菌の感染が指摘されているが、近年、ピロリ菌の感染によって、胃粘膜にエピジェネティクスの異常が誘発されることがわかってきた15)。胃がんで高頻度にDNAメチル化が生じることが知られている7遺伝子8領域について、ピロリ菌感染陽性者と陰性者から採取した胃粘膜を解析したところ、陽性者は陰性者の5〜303倍もの高いメチル化の状態であることが示された。また、胃がん患者の非がん部の胃粘膜と健常者の胃粘膜の解析では、非がん部の胃粘膜の方が2〜32倍のメチル化状態を示した。さらに、ピロリ菌の除菌後に特定の遺伝子ではメチル化の程度が下がるといわれており、今後、胃がんの発がんリスクの診断や胃がんの予防にエピジェネティクスの知見が活用される可能性がある。

 エピジェネティクスの状態から発がんリスクの診断ができると考えられるがんには、胃がんの他に、大腸がん、乳がん、腎がんがある16)

(2) 精神疾患の発症や行動異常との関連性

 近年、精神神経疾患や精神発達障害疾患においても、エピジェネティクスの破綻が発症に関わっているのではないかという推論から、研究が進められている。

 精神神経疾患に関しては、@抗うつ薬や電気けいれん療法の効果のメカニズムとエピジェネティクスの変化(ヒストン修飾状態の変 化)との関連性の研究、A双極性障害(躁うつ病)は父母のどちらから遺伝したのかによって症状や発症 年齢が異なることから、これらとゲノムインプリンティングとの関連性の研究、B双極性障害や統合失調症の患者の死後脳を用いて、発症に関連すると考えられる遺伝子のDNAメチル化状態を対照群と比較する研究、C一卵性双生児の双極性障害の発症不一致例(双生児の一方のみが発症)とDNAメチル化との関連性の研究などがある17)。いずれにおいてもまだ推定の段階で、明確なエピジェネティクスとの関連性はわかっていない。

 精神発達障害では、DNAメチル化、クロマチンリモデリング(クロマチン構造変化)、ヒストン修飾、X染色体不活性化など、エピジェネティクスに関連する遺伝子の先天的な異常が原因で生じる疾患が、9疾患ほど知られている18)。また、動物実験ではあるが、誕生後の虐待により脳の精神ストレス耐性遺伝子であるグルココルチコロイド受容体遺伝子がメチル化されて、遺伝子発現が低下し、将来的に行動異常が出現することが2004年に報告19)され、後天性の精神発達障害においても、エピジェネティクスが関連する可能性がでてきた。

 今後は、エピジェネティクスという科学的な根拠に基づいた、精神発達や行動に対する環境要因の重要性が、明確にされていくと思われる。また、この研究領域の進展により、行動異常の予防法や治療法なども検討できるようになるのではないかと期待される。

(3) 生活習慣病の発症との関連性

 近年、生まれる前の胎児期に成人病の素因が形成されるのではな いかという説(成人病胎児期発症説;FOAD説)が提唱されている20)。この説によれば、胎児期の臓器形成や代謝系の形成される臨界期に低栄養または過量栄養に暴露されることで、DNAメチル化などのエピジェネティクスの変化が誘導され、出生後の過量栄養・低運動に曝されることで病気を発症するという。また、胎児期などの環境により生じたエピジェネティクス変化は、その後の何世代にもわたり受け継がれるといわれている。これらは本当であるのか、またそのメカニズムはどうなのかは、まだ明らかにされていない21)

 2005年に報告された動物実験では、妊娠した母マウスを低栄養状態にし、出生後の子マウスには通常の食餌を与え続け、出生後50日目(成体)に肝臓の脂質代謝に関連した遺伝子を調べた。その結果、DNAメチル化が低減して、複数の遺伝子の発現量が3〜10倍増加していることがわかり、胎児期の環境変化が成体にまで影響する可能性が示唆された21、22)

 また、2009年には、エピジェネティクスに関連する遺伝子であるJhdm2aを失わせたノックアウトマウスが、肥満と高脂血症を発症したことが報告23)された。

 このように、エピジェネティクスと生活習慣病の発症の関連性についての示唆が次々と得られている。

4-3 エピジェネティクス創薬

 エピジェネティクスを標的とした医薬品として、がんに対する治療薬の開発が進められている。特に、DNAメチル基転移酵素(DNMT)の阻害薬やヒストン脱アセチル化酵素(HDAC)の阻害薬において成果が示されている注8)。図表8に示すように、2009年5月現在で、商品として市場に出ているエピジェネティクス医薬品は3品あり、いずれも米国で承認されている。また、図表に挙げた以外にも、米国において臨床治験の第Iまたは第Uフェーズに入っている医薬品候補がある(belinostat, MGCD─ 0103, panobinostat, romidepsin)24)

 DNMT阻害薬decitabineは、高容量の短期投与よりも、低容量で長期投与することが効果的であると報告されている25)。DNMTは正常細胞に必須であり、高容量投与では細胞死が引き起こされるので、低容量長期投与は副作用を避けることにも繋がると考えられる。しかし、なぜ、低容量長期投与でも効果が出るのかは不明である。また、decitabineと様々なHDAC阻害剤とのコンビネーション投与の臨床治験も実施されている。

 日本では、まだ承認されたエピジェネティクス薬は無い。ただし、図表8のFK228は、1990年に藤沢薬品工業(現アステラス製薬株式会 社)の研究者が発酵天然物の探索によって発見したものであり、それが後に米国の抗がん薬開発ベンチャーGloucester社にライセンスアウトされて開発された医薬品である26)

4-4 エピジェネティクスによるiPS細胞の品質評価

 幹細胞は様々な細胞に分化する能力を持つため、病気などで損なった組織や臓器などを再生する再生医療への利用が期待されている。特に、受精胚からつくられるES細胞に比べて、iPS細胞は体細胞への遺伝子導入によりつくられるため、倫理問題等が生じず、iPS細胞作製技術により、再生医療の実現は現実味を帯びてきたと考えられている。しかし、現在のiPS細胞技術では、作製したiPS細胞の遺伝子発現特性に多様性があり、均一で高品質なiPS細胞を作製するためには、さらなる技術の確立が必要である27)。この多様性は、iPS細胞作製に利用する体細胞にもともとエピジェネティクスの多様性があることに原因している。

 したがって、iPS細胞の医療適用の実現化には、エピジェネティクスの観点からのiPS細胞の標準化の手法や品質評価システムの確立が必須であり、これによって、患者に安全なiPS細胞を提供できると考えられる。そのためには、iPS細胞を対象としたエピジェネティクス研究の重要性が今後、増すと考えられる。

4-5 エピジェネティクスの検出装置の開発

 ゲノム中のどのDNA塩基配列にメチル化が生じているかを検出することは、エピジェネティクスの状態を知る上で重要であるだけでなく、将来的には、がんなどの疾患の診断用のマーカーとして利用できると考えられる。しかし、通常の遺伝子検査ではメチル化部分を検出することはできない。

 近年様々なメチル化部分の検出法が開発されているが、現在主に 使用されているのは、DNA断片を重亜硫酸で前処理することにより別の塩基に変換してDNAのシーケンスを決定するという、Bisulfite sequencing法を用いたメチル化の検出である28)。従来はこの方法の検出には長時間かかっていたが、近年の桁違いに効率の良い高速シーケンス装置を利用することによって、網羅的なメチル化解析が可能となってきている。その例として、2008年に、シロイヌナズナ(Arabidopsis thaliana)ゲノムのメチル化部位をショットガン式に解析した結果が報告された29。シロイヌナズナのゲノムサイズは約1億3000万塩基とヒトの30億塩基に比べると小さいものの、哺乳類のメチル化ゲノムの解析が現実的な段階に近づいて来た。

 しかし、DNAメチル化以外の、ヒストン修飾やゲノムインプリンティングなどのエピジェネティクスの検出法については、従来法のクロマチン免疫沈降法やFISH法など30)やや時間のかかる方法が実施されており、今後、エピジェネティクスを臨床上の診断などに応用するためには、新しい試験法の開発やハイスループット(迅速な解析)を可能とする装置の開発が望まれる。また、前節で示したようにiPS細胞の品質評価にエピジェネティクスを用いる場合には、一細胞レベルでエピジェネティクスの状態を検出できる装置が必要となる。エピジェネティクス研究の成果の臨床応用を考えた場合に、最も必要度の高い研究課題は、エピジェネティクスの解析装置開発であると考えられる。

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5.米国および欧州のエピジェネティクス研究の推進状況

5-1 米 国

 NIH(米国国立衛生研究所)は、より効率的で生産的な医学研究を推進するために、NIHロードマップを2002年に策定し、全NIH(27機関)で共通して優先的に進めるべき研究課題を提示した31)。それ以降、ロードマップに含まれる研究課題は、基本的にあまり変更がなかった。

 しかし、エピジェネティクス研究が2007年にNIHロードマップ 上のプロジェクトに加わり、2008年1月には以降の5年間で$190million(190億円)以上の資金投入が発表された32)。このNIHの支援は、3─2で示した研究コミュニティの活発化に対応したものと考えられる。

 参考として、2009年5月現在、NIHロードマップにおいて実行されている主なエピジェネティクス研究プログラムを図表9に示した。

 また、2009年3月にNIHロードマップに関する研究成果報告会として、「ヒト疾患のエピゲノム変化に関する顕在化してきた証拠 (Emerging evidence for epigenomics changes in humandisease)」というテーマの会合がNIHにおいて開催されたなど、米国のエピジェネティクス研究の方向性は、急速にヒトを対象とした研究の方向に進んで来ている。

5-2 欧 州

 欧州のエピジェネティクス研究に対する支援は2000年頃から実施されてきた。EPITRON(epigeneticTreatment of Neoplastic Disease)33)というチーム参加型プロジェクトは、FP6の下で10.9Mユーロ(3.6億円)が支援され、フランスなど7カ国が参加している(2005〜2010年)。また、HEROIC(High-throughputEpigenetic Regulatory Organisationin Chromatin)というチーム参加型プロジェクトは、同じく FP6により12Mユーロ(4億円)が出資され、オランダなど8カ国が参加している(2005〜2010年)34)。また、どちらも、FP7においても継続的な支援がなされている。

5-3 日 本

 日本の場合は、まだエピジェネティクスに関する大規模なプロジェクトレベル(複数研究機関の連携など)の推進はなく、研究コミュニティの活発な動きが反映されていないようである。したがって、公的資金としては、科学研究費補助金(科研費)等の個人研究が主体である。2007年度から5年間、科研費の特定領域研究「生殖系列の世代サイクルとエピゲノムネットワーク」(領域長:国立遺伝学研究所・佐々木裕之氏)が実施されている(約23億円)。

 ただし、(独)科学技術振興機構(JST)の戦略的創造研究推進事業さきがけ「iPS細胞と生命機能」 (2008〜2015年)のように、プロ グラム内にエピジェネティクス研究を含んでいるものがある。JSTは、2008年1月に発表したG─TeC報告書「幹細胞ホメオスタシス」35)において、「エピジェネティクスはがん研究との関連が強いが、近年、幹細胞研究に対しても影響を与えて発展している」と記している。また、「欧米に引き続き、今後、日本もエピジェネティクス関連プログラムを本格的に推進すると予想される」と記述しており、日本において大規模なエピジェネティクス研究プロジェクトへの支援が開始されるのも遠い話ではないと思われる。

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6.おわりに〜今後のエピジェネティクス研究への期待〜

 昔から、ヒトを含めた生物を決定づけるものは何なのか、について議論されてきた。「氏(遺伝)」か「育ち(環境)」か、それとも両方なのか。日常感覚としては、我々は、その両方であることを知っている。しかし、それについての科学的な裏づけは無かった。

 生涯において原則不変という性質をもつゲノムに対して、エピジェネティクスは、受精の瞬間から変化しつづける動的な性質をもつ。つまりエピジェネティクスは、ゲノムという生物の遺伝情報に「環境という外部からの影響」と「時間(の 経過)」という2つの変数を加えたものと考えられる。

 ヒトゲノム計画などにより、「ヒトは生命としての誕生時に、既に将来の病気の罹り易さや行動様式などが決定されていて不変である」という考えが、一般の人々に広まった。しかし、エピジェネティクスの観点から言えば、「ヒトは外界の影響を受けて変化し続ける存在であり、誕生時には大まかなことは決まっているが“詳細は未確定で様々な可能性をもつ存在”である」。

 エピジェネティクスの研究はようやく成果が出始めたところであり、今後、さらに多くの成果を生むことが期待される。特に、@生体内の恒常性維持のための遺伝子発現制御に関する科学的な知見の蓄積と、その結果として、A生体内の遺伝子発現を人為的に制御することを可能とする技術の開発、が期待される。これは、社会に「遺伝子制御」についての議論を喚起することになるかもしれない。

 さらに、今回はあまりふれなかったが、エピジェネティクスは、加齢(老化)とともに変化することが知られている。したがって、将来的に、高齢者特有の症状や疾患に対する治療薬が、エピジェネティクス研究から生まれてくるかもしれない。さらに、エピジェネティクス研究の成果により、環境やストレスなどに対して生物が受けるダメージが正しく理解されてその測定法が開発され、その結果、ダメージに対する防御や生活の改善などの具体的な対策が立てられるようになるかもしれない。

 このように、エピジェネティクスは、今後の進展と成果が大きく期待される国際的に注目度の高い研究領域であるので、日本においても積極的な研究支援が必要であると考えられる。また、もし、最優先の研究課題を一つ挙げるとすれば、それはエピジェネティクスの解析装置開発であると考えられる。  

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1) 伊藤裕子「エピジェネティック・がん研究の必要性―ポストゲノム時代のがん研究―」科学技術動向、No.26、2003年5月号

2) 日本エピジェネティクス研究会:http://www.nig.ac.jp/labs/NigPrjct/jse/index.html

3) 「平成19年度成果報告書エピジェネティクスに関する研究動向および産業応用への課題に関する調査」、独立行政法人新エネルギー・産業技術総合開発機構、2008年2月(委託先 社団法人バイオ産業情報化コンソーシアム)

4) C.-t. Wu, J.R. Morris. Genes, Genetics, and Epigenetics: A Correspondence. Science Vol.293 (5532), 1103-1105, 2001

5) 「注目のエピジェネティクスがわかる」編集・押村光雄(羊土社、2004)

6)  2003年1月21日CBS News, “Cloned Cat Isn’t A Carbon Copy.”: http://www.cbsnews.com/stories/2003/01/21/tech/main537380.shtml

7) Epigenetics: Symposia on Quantitative Biology, Volume LXIX 2004 (Cold Spring Harbor Laboratory Press)

8) Gordon Research Conference, 2007 Program (Epigenetics), :http://www.grc.org/programs.aspx?year=2007&program=epigen

9)  Gordon Research Conference, 2009 Program (Epigenetics), :http://www.grc.org/programs.aspx?year=2009&program=epigen

10) The American Association for Cancer Research Human Epigenome task Force and the European Union, Network Excellence, Scientific Advisory Board, Moving AHEAD with an international human epigenome project. Nature Vol.454, 711-715, 2008

11) Epigenome Network of Ecellence (NoE), :http://www.epigenome-noe.net/

12) Environmental Epigenomics Society(環境エピゲノミクス研究会)ホームページ:http://eegs.web.fc2.com/

13) T.Kono, et al. Birth of parthenogenetic mice that can develop to adult. Nature 428, 860-864, 2004

14) 金児- 石野知子、石野史敏「ゲノムインプリンティングと進化」蛋白質核酸酵素 Vol.53, No.7, 836-843, 2008

15) 榎本祥太郎、安藤孝将、牛島俊和「H.pyloriによるDNAメチル化異常誘発と異発癌との関連」日本臨床66巻,増刊号 5, 89-94, 2008


16) 牛島俊和「がんエピジェネティクスの診断応用」医学のあゆみ Vol.225, No.7, 559-564, 2008

17) 加藤忠史「気分障害のエピジェネティクス」分子精神医学 Vol.8, No.1, 38-44, 2008

18) 久保田建夫「精神発達障害疾患におけるエピジェネティック異常」医学のあゆみ Vol.225, No.7, 570-574, 2008

19) I.C. Weaver, et al. Epigenetic programming by maternal behavior. Nature Neuroscience, 7, 847-854, 2004

20) DJ. Barker, C. Osmond. Infant mortality, childhood nutrition, and ischaemic heart disease in England and Wales. Lancet, 1(8489), 1077-1081, 1986

21) 福岡秀興、向井伸二「胎生期環境と成人病素因の形成機序−成人病胎児期発症説」臨床検査 Vol.52, No.6, 637-641, 2008

22) KA. Lillycrop, et al. Dietary protein restriction of pregnant rats induces and folic acid supplementation prevents
epigenetic modification of hepatic gene expression in the offspring. Journal of Nutrition, 135, 1382-1386, 2005

23) K. Tateishi, et al. Role of Jhdm2a in regulating metabolic gene expression and obesity resistance. Nature, 458, 757-761, 2009

24) Drug Information Portal, NLM, NIH :http://druginfo.nlm.nih.gov/drugportal/drugportal.jsp?APPLICATION_NAME=drugportal

25) 渡邊嘉之「エピジェネティック治療の現状と展望」最新医学 第63 巻, 第4 号, 50-59, 2008

26) 中島秀典「ヒストン脱アセチル化酵素阻害薬の探索研究経緯」日薬理誌 132, 173-176, 2008

27) 桜田一洋、石川哲也「ヒトiPS 細胞技術の現状と課題」細胞工学Vol.27, No.12, 1296-1302, 2008

28) 油谷浩幸「網羅的エピゲノム解析技術」臨床検査 Vol.52, No.6, 643-648, 2008

29) Cokus, SJ et al. Shotgun bisulphate sequencing of the Arabidopsis genome reveals DNA methylation patterning. Nature, 452(7184):215-219, 2008

30) 竹田真由、舩渡忠男、斉藤邦明「エピジェネティクス研究に必要な手技」臨床検査 Vol.52, No.6, 649-653, 2008

31) 島田純子「米国国立衛生研究所(NIH)の生物医学研究推進に向けた戦略(NIH ロードマップ)」科学技術動向、No.34、2004年1月号

32) NIH Announces New Initiative in Epigenomics, NIH News (January 22, 2008):http://www.nih.gov/news/health/jan2008/od-22.htm

33) EPITRON:http://www.epitron.eu/

34) HEROIC: http://www.heroic-ip.eu/

35) G-TeC報告書「幹細胞ホメオスタシス」国際技術力比較調査(エピジェネティクス)独立行政法人科学技術振興機構研究開発戦略センター(2008年1月)


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