1.はじめに
2008年1月18日、米国商務省(DOC)は「イノベーション計測−米国経済におけるイノベーションの状況を追跡する」(“Innovation Measurement-Tracking the State of Innovation in the American Economy”)1)と題した報告書を公表した。この検討は、@「イノベーションは経済の駆動力であり、適切な政策に向けて、政策決定者や国民がイノベーションの経済成長や生産性へのインパクトをよりよく理解することが必要である」2)との政府の認識の下になされた。また、A有力なイノベーションや経済の研究者はもとより産業界の有力者も参画したトップダウンのイニシアティブである。さらに、Bイノベーション計測に向け、DOCにとどまらず政府横断的な取り組みを求め、民間、学界にも取り組みを求めた報告である、といった特徴を有している。
我が国の第3期科学技術基本計画においても、方向性の一つとして、科学技術に基づくイノベーションの創出を通じた社会・国民への成果の還元を打ち出している。基本計画を受けた「イノベーション創出総合戦略」ではイノベーションの効果を把握し、それらを政策評価・立案へ反映させていこうとしている。
したがって、上記の米国の取り組み、すなわち、イノベーションの計測を行い政策に反映しようという省庁横断的な米国の取り組みは、今後、我が国にも示唆を与えるものであると考えられる。
本稿では、こうした観点から、今回のDOC報告書に至る背景としてのイノベーション政策とイノベーション計測の動向、および報告書の概要を紹介する。
2.イノベーション政策とイノベーション計測の動向3)
近年、経済のグローバリゼーションの進展とBRICsなど新興国の台頭、これらに伴う国際競争の激化を背景に、米・欧・日をはじめ各国・地域においてイノベーション重視の政策が顕著となっている。経済成長と国際競争力の源泉を「イノベーション」に求め、国として戦略的にイノベーションの推進を図ろうという動きである。
米国では、“Innovate America”(通称、パルミサーノ報告)、“Rising Above the Gathering Storm”(全米科学アカデミー報告)、「全米競争力イニシアティブ」、2007年8月に制定された“America COMPETES Act”(米国競争力法)などがその例である。また、欧州では「リスボン・新リスボン戦略」が、我が国では「第3期科学技術基本計画」、「イノベーション創出総合戦略」、「イノベーション25」、そして4月10日に中間とりまとめが発表された「革新的技術戦略」などが、その例として挙げられる。
これらとともに、イノベーションの効果を計測し、政策に役立てようという動きも顕著になっている。科学技術指標については、従来から、全米科学財団(NSF)や経済協力開発機構(OECD)などで作成が進められ、我が国でも科学技術政策研究所において取りまとめられてきた。一方、イノベーションについては、OECDが企業を中心としたイノベーション活動に関するデータを収集・解釈するための「オスロ・マニュアル」を公表し、これに基づいて欧州では「欧州イノベーション調査」がすでに4回行われてきている。 しかし米国では、近年、従来の取り組みに飽きたらず、変化のスピードが速い経済社会のダイナミズムを捉えたエビデンスに基づいた科学技術政策やイノベーション政策の立案や推進のために、さらに大きなイニシアティブが進められようとしている。その一つが、マーバーガー大統領補佐官(科学技術担当)の提唱に基づいてNSFが進めている「科学・イノベーション政策のための科学」(“Science of Science and Innovation Policy”:SciSIP)注)であり、もう一つが、DOCが検討を進めてきた「イノベーション計測」である。

3.米国のイノベーションの計測に関する諮問委員会
前述の米国の2つの取り組みのうち、DOCによるイノベーションの計測に関する検討は、次のような認識のもとで進められてきたものである。
1)
米国経済の活力にとってイノベーションは重要であり、イノベーションが生産性と経済成
長に及ぼすインパクトについて理解することが重要である。
2) イノベーションがどのように経済に寄与するかをより良く理解することは、継続的な成長と繁栄に向けた政策の立案に役立つ。
2006年8月4日には、グテイエレツ商務長官自らが、「21世紀経済におけるイノベーションの計測に関する諮問委員会」と、これに対応した省内タスク・フォースの設置を発表した。この諮問委員会は、カール・シュラム氏(ユーイング・マリオン・カウフマン財団会長・CEO)を座長に、 S.J.パルミサーノ氏(IBM社会長・CEO)、S.バルマー氏(マイクロソフト社CEO)、G.バックレー氏(3M社CEO)、D.W.ジョルゲンソン教授(ハーバード大)など、産学のリーダー15名から構成されている。諮問委員会は2007年2月から会合を重ね、2008年1月18日に報告書を公表した。この報告書が「イノベーション計測−米国経済におけるイノベーションの状況を追跡する」である

4.報告書「イノベーション計測−米国経済におけるイノベーションの
状況を追跡する」の概要
報告書によれば、諮問委員会はまず、イノベーションを以下のように定義した。
[イノベーションとは]
顧客に対する新たな価値と企業に対する利益を創出することを目的とした、新たなあるいは改良された製品・サービス・プロセス・システム・組織構造、あるいはビジネスモデルの設計・発明・開発及び/または実施
ここで注目すべき点としては、科学技術に基づく製品・サービス・プロセスの創造や改良といった「技術革新」はもとより、新たなシステム・組織構造・ビジネスモデルの開発・実施といった、新たな価値を生み出す活動全般を幅広く視野に入れていることが挙げられる。 その上で諮問委員会は、従来から把握されてきたイノベーションのインプットだけでなく、イノベーションの成果(アウトカム)を追跡し、イノベーションの経済効果を測定する必要がある、として検討を進めてきた。
これらを経て諮問委員会がとりまとめた報告は、まず、イノベーションに関するデータの収集は、企業が自らのイノベーティブな活動の効果を評価する方法に沿って行われるべきである、法規制の効果の計測も考慮すべきである、イノベーションの指標は、事業所、企業、産業、国、国際、また、できれば地域レベルでの分析が可能とすべきである、等の6点の実施指針を挙げた上で、以下に述べるような「イノベーションの計測のため政府が取り組むべきこと」、「イノベーションの計測に産業界はいかに貢献できるか」、「イノベーションの計測に必要とされる研究」を勧告している。そして、「勧告の実施は、我が国が、経済に与えるイノベーションのインパクトを効果的に計測することに大いに貢献するであろうし、イノベーションの理解とより良い政策の策定に必須である。委員会は政府、産業界、研究者が協働してイノベーションの理解と計測の向上に取り組むことを求める。」と結んでいる。
4‐1
イノベーションの計測のため政府が取り組むべきこと
報告書は政府に対し、イノベーション計測の重点化に向けた政府各部局の協調、既存の政府データの構造の改善、新たなより良いデータの収集、官庁統計間のリンケージの改善とデータ共有・同期化を求めている。特に政府が取り組むべき中心事項は、「国家経済におけるイノベーションの特定・計測のためのより強固な枠組みの構築」であるとし、具体的には、以下を推奨している。
1) 「産業レベルでの年次全要素生産性計測の開発」:国民所得生産勘定(NIPA:National Income and Product Accounts)に他の政府統計データを統合し、より一貫性のある勘定体系を再構築することにより、経済成長へのイノベーションの寄与の一貫した推計を可能とすること
2) 「国民所得生産勘定におけるイノベーション補助勘定の創設」:イノベーションへの投入要素の範囲を拡大し、これらの投入要素の産業間のフローの追跡を可能とすること
3) 「サービス産業に関するデータの改善」
4) 「無形資産(intangibles)の計測方法の改善」
このほか政府が取り組むべきこととして、政府統計の既存データの一層の活用、より一層のイノベーション研究のためのデータアクセスの改善、商務省によるワークショップやフォーラムの開催を通じたイノベーションの推進、阻害および実現要因の検討、イノベーションの計測・分析に関連した国際的な対話への継続的な参加による米国の取り組みの国際的な比較性の可能な限りの確保、データ収集とイノベーション推進要因に関する今後の分析作業を踏まえたナショナル・イノベーション指標の開発の検討なども挙げている。そして、最後に、これらの勧告の実施に必要な予算措置を求めている。
4‐2 イノベーションの計測に産業界はいかに貢献できるか
報告書は、イノベーションの計測は企業との協働プロセスでなくてはならず、産業界は多くの点でイノベーションの計測の向上に貢献し、これを推進することが可能である、と述べている。そして産業界に対しては、特に、企業および産業レベルでイノベーション指標を作成・拡張・実施し、イノベーション計測に向けたベストプラクティスを開発することや、イノベーション研究に参加し、必要に応じてイノベーション関連情報を研究者に提供することを求めている。
4‐3 イノベーションの計測に必要とされる研究
報告書は、近年イノベーションに関する理解が深まってきたとはいえ、イノベーションとその計測については、更に多くの理解が必要であるとし、政府、産業界、学会に一層のイノベーション研究を求めている。
特に探求を勧告している研究領域は以下である。
1) 「イノベーションのアウトカムの計測」:市場シェアに基づくイノベーション計測の有効性、イノベーションの強度の計測のための他国の先行事例調査とパイロットプロジェクトの実施、特定のイノベーションの推進、阻害および実現要因のインパクトの定性的・定量的分析など
2) 「不足しているイノベーションデータの特定と取得方法の検討」:イノベーション計測に効果的なデータの特定、知財取引関係データの活用可能性、無形資産への投資の測定手法など
3) 「イノベーション活動と協力関係、イノベーションのパフォーマンス、企業業績の関係の分析」:イノベーションと雇用、イノベーション強度と企業業績、協力関係とイノベーションの成果、企業のイノベーション活動の国際比較、企業データの分析によるイノベーティブな活動や企業の特定、長期のデータに基づくビジネスのダイナミクスとイノベーションの関係の分析、異なる規制環境下での企業のイノベーションパフォーマンスの比較など

5.結び
以上、米国におけるイノベーションの計測に関連する2つの新しいイニシアティブ、すなわち、マーバーガー補佐官の提唱に基づくNSFのSciSIPと米国DOCの下で検討が進められてきたイノベーション計測に関する取り組みのうち、後者の概要を報告した。本稿を結ぶにあたり、両者の関係についても言及しておきたい。
NSFのSciSIPでは、ワークショップを開催するとともに、すでに2回にわたりファンディングが公募され、研究面からの貢献が進められようとしている4)。特に研究開発関連の指標の整備が期待されているNSFは、これらSciSIPの成果を2010年に公表される「科学・工学指標」に反映したいとしている5)。
また、イノベーション計測の柱の一つとして挙げられている無形資産の推計については、すでに、DOCの経済分析局(BEA:Bureau of Economic Analysis)がNSFとの協力により「研究開発サテライト・アカウント」の推計を実施しており、2007年秋には、「研究開発支出を無形資産を形成する投資とみなせば1959年から2004年にかけての名目GDPは毎年約3%高かったと推計される」、との報告もなされている6)。
NSFとDOCの2つのイニシアティブは、イノベーションの経済的効果を明らかにし、今後の政策立案に貢献する、という共通の目的の下、NSFを中心とした大規模な研究ファンディングや新たな科学技術指標の整備と、DOCのBEAを中心とした経済統計の整備という役割分担と相互の連携により進められようとしている。イノベーション計測に向けた省庁を超えた連携による取り組みの例として、引き続きこれらイニシアティブの動向と進捗に注目していく必要があろう。

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