[レポート1]

消防防災に関する科学技術動向

―消防防災領域でのイノベーションを目指して―

松原 美之
浦島 邦子

客員研究官

環境・エネルギーユニット

1.はじめに

 近年の住宅火災死者の急増傾向など、かつて安全と言われた我が国の多くの場面でも劣化や不安全化が進展している。2007年新潟県中越沖地震に見られるように地震災害と土砂災害が複合するケース、台風や竜巻等の自然災害多発などは気になる傾向である。また、バブル崩壊により中断されていた都市部の開発が再開され、新たな過密都市空間が登場しており、安全・安心を脅かす要因が増加している。

  このような背景から、安全・安心な社会を実現するための科学技術の必要性が従来以上に高まっている。安全・安心の科学技術の一翼を担う「消防防災の科学技術」についても、これまで以上に、研究の成果が具体的に社会に還元されるための施策が求められている。安全・安心を獲得するためには、潜在危険の発掘と安全基準策定等の災害予防のための科学技術活用(法令基準への反映など)、災害発生後の対応のための科学技術活用(消防用装備の高度化など)の両面において社会還元が不可欠である。これまでにも、法令基準に消防防災科学技術の成果を活用する努力は実施され、一定の成果を上げている。一方、消防活動など事後対応への消防防災科学技術の研究開発成果の導入は必ずしも十分とは言えない1)。 

 本稿では、図表1に示すように、従来は十分な検討が実施されてこなかった、災害発生後の対応被害軽減のために科学技術を活用するという視点に焦点を当てて、現状と課題について整理し、特に消防防災の分野において科学技術でイノベーションを実現するための課題を分析し、イノベーション達成に向けた提言を行う。

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2.消防防災の傾向と災害をとりまく状況の変化

 総務省消防庁が発行している「消防白書」2)は、火災だけでなく、危険物施設・石油コンビナートの災害、風水害、火山災害、地震災害等の自然災害、原子力災害等の特殊災害など、全国の事故・災害の概況について幅広く概括的な情報を提供している。同白書によれば、近年は、住宅火災死者および危険物施設の事故が増加傾向を示しており、特に図表2に示すように危険物施設での漏洩事故は2006年に過去最悪を記録した。

  住宅火災死者については、従来から高齢者・乳幼児・身体機能に障害を有する人々などの災害弱者と呼ばれる人々への安全対策が大きな課題とされてきた。しかし火災統計分析の結果によると、図表3に示すように、熟年無職男性の死亡率の増加という最近の特徴的な傾向も明らかになっている3)

  一方、危険物施設の漏洩事故増加の主たる要因としては、施設老朽化と維持コスト削減などに起因する腐食・劣化が考えられるとされている。しかし、これにも詳細な分析が必要であり、統計数字には表れていないが、台風など強風による浮き屋根型石油タンクにおける浮き屋根の損傷など、従来見られなかった形態の施設被害も発生している。また、2007年に新潟県上越市で発生した化学工場の爆発事故のような従来型の事故についても、依然として増加傾向が懸念されている。

  このような事故や災害危険の増大傾向が懸念されるなか、一方では、図表4に示すような首都高速道路新宿線の建設を始めとした大都市圏における地下空間開発や、高層・大規模建築物の建設が急速に復活している。過密都市空間の災害に対する脆弱性を増大させる周辺情勢の変化が進行している4)

chart24

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  自然災害としては、2006年新潟県中越・2007年能登半島沖・2007年新潟県中越沖のそれぞれの地震に見られたように、地震と土砂災害が複合して被害を増大させているというのも最近の特徴と言える。

  海外に目を転じると、インド洋地震津波災害(2004年)、ハリケーン・カトリーナ(2005年)、フィリピン・レイテ島南部の地滑り(2006年)等の、巨大な地震・津波、竜巻・台風、土砂崩れ等、自然災害が多発する傾向も感じられる。2005年に米国で発生したハリケーン・カトリーナのような高潮災害に象徴されるように、近年、世界的に見ても大規模水害が多発している。これに対して内閣府は「大規模水害対策に関する専門調査会」を設置したが、我が国でも豪雨の発生頻度が近年増加傾向にあり(図表5)、大規模水害が発生しても被害を最小限に食い止めるための対策は緊急の国家的課題であることが表明されている5)

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3.消防防災科学技術の研究開発

 地方自治体消防機関および総務省消防庁等で、個別にあるいは連携して実施されている、我が国の消防防災科学技術の研究開発の現状を以下に概説する。

3‐1 地方自治体の消防機関における研究開発

  消防防災の科学技術に関して研究開発部門を有する地方自治体の消防機関は、札幌市消防局、東京消防庁、川崎市消防局、横浜市安全管理局、名古屋市消防局、京都市消防局、大阪市消防局、神戸市消防局および北九州市消防局の9機関である。研究開発部門の定員は9機関で計74人であり、研究費総計は約1億円である。各消防機関の研究費には、180万円から5000万円まで大きな幅がある。

  地方自治体の消防機関では、消防装備・資機材等の改良、改造等、消防隊の勤務形態に関する研究、火災性状に関する研究など火災等の災害現場に密着した技術開発や応用研究、防災資機材等の改良・改造、火災原因調査に係る原因究明のための調査、分析、試験等が行われている。

  各消防機関の最近の主な研究開発課題は、 

  • 消防隊員の勤務時の身体負荷に関する研究(札幌市消防局)
  • 隊員安全管理システム、現場用化学分析機器(東京消防庁)
  • ウォータミスト消火ノズルの開発(横浜市安全管理局)
  • 防火戸の改良開発(京都市消防局)
  • 天然系界面活性剤による新消火薬剤(北九州消防局)他

などである。これらの消防機関は、毎年、「大都市消防防災研究機関連絡会議」を開催し、消防防災の科学技術についての意見交換を行っている。

3‐2 国としての研究開発

  2006年4月に消防技術政策室が総務省消防庁に新設され、本庁および消防研究センター(旧(独)消防研究所)において、緊急消防援助隊の装備開発、地震等大規模自然災害対応情報システム等、全国に共通する課題について研究を実施している。2007年8月現在、消防庁消防研究センターの研究者数は26名、研究費は約3億円/年である。以下に、現在実施されている主な研究開発課題を紹介する。

(1)ロボットの研究開発

  2006年までにNBCテロ用のロボット開発として、消防本部で導入可能な価格で、かつ実用性能の高いロボットの開発を実施してきた。NBC災害とは、核・放射線や放射性物質による災害(Nuclear)、生物・ウイルスやリケッチア・細菌等の病原性微生物による災害(Biological)、化学・有毒化学物質による災害などの特殊災害(Chemical)などの特殊災害を指す。これまで開発したロボット技術を応用し、防護服などを身につけた隊員を認識判別して、自律的に追従移動し、移動経路を認識記憶し、発見した要救助者を自律的に安全な領域まで搬送することができる、新しいロボット「FRIGO-M」6)の開発が進んでいる。これは、図表6に示すような防水・防塵・防爆・耐衝撃性に優れた本体を持ち、消防隊員の活動を支援して隊員の負担を軽減しようとする機器である。

  図表7には、NBC災害などの特殊災害時における消防隊員の活動支援機器のイメージを示す。

chart27

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(2)石油タンクの地震対策の研究

  2003年の十勝沖地震の際に苫小牧の石油タンク2基から出火し、多くの浮き屋根式タンクが損傷した。このような例を踏まえた対策技術の研究が実施され、石油タンクの構造に関する消防法の基準改正を目指している。図表8に示すような、最大直径30mの実タンクでのスロッシング(液面揺動)実験等を実施し、浮屋根挙動に関して予測技術を開発している。

  また、地震波動伝搬予測手法を構築し、地震時に石油タンクが被っているであろう被害を、地震直後にリアルタイムで予測し、現地消防本部などの関係機関に通報するシステムの開発を行っている。図表9に、地震時の石油タンク被害のリアルタイム予測システムの全体イメージを示す。

(3)過密都市空間の火災対策に関連した研究

  地下施設や超高層ビル等の複雑大規模な空間における火災の進展予測が研究されている。市街地延焼火災時の火災旋風現象(図表10)など過密都市空間での火災の進展等を予測する手法の確立、効果的な消防活動を支援する技術の研究開発、過酷な消防活動環境に耐える消防防火服の開発(図表11)を行っている。

  その他にも、「大規模自然災害発生時における緊急消防援助隊の部隊運用など、消防防災活動を支援するための情報伝達・意思決定支援システムの開発」、「新たに流通使用されることとなる物質が有する火災爆発危険性の評価技術、消火および再着火防止技術に関する研究」、「原子力施設など特殊な施設・環境での火災等の性状把握と消防隊員の安全確保・負担軽減技術の研究」などが実施されている。

3‐3 消防防災科学技術研究推進制度による研究開発

 消防防災科学技術の産学官連携研究を推進させるために、2003年度より、新たに競争的資金制度(3.5億円/年)が創設された。2006年度までの4年間に、民間企業・大学・地方公共団体等の産学官連携研究として、「水損低減型2流体消火ノズル」、「津波による石油タンクへの影響評価」、「軽量・機能化を図った大容量水中ポンプ」など計48課題が採択された。これらの中には、総合科学技術会議の産学官連携功労者表彰総務大臣賞を受賞したものが2件ある。「水/空気2流体混合噴霧消火システムを用いた放水装備」および「少水量型消火剤の開発と新たな消火戦術の構築」)である。

 2007年度からは、消防機関との共同研究を前提とした「現場ニーズ対応型研究」枠が新たに設置された。ここでは、より災害現場に密着した「出口の見える研究」が優先的に実施される仕組み作りが模索されている。「次世代防火服の開発」「分子認識による超高感度火災検知センサー」「全面タンク火災消火支援用筏の開発に向けた実用可能性の研究」などが課題に挙げられている。

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4.消防防災科学技術の重点化の方向性

 安全・安心社会の創出に貢献する科学技術成果を、限られた研究資源のなかで実質的に得るためには、適切な課題の選択と研究資源の集中が不可欠である。以下では、総合科学技術会議および総務省消防庁から示されている重点化の方向性について概説する。

4‐1 第3期科学技術基本計画に盛り込まれた重点課題

  総合科学技術会議が策定した第3期科学技術基本計画には、「安全・安心な社会の実現」が大きな柱の一つに盛り込まれている。消防防災の科学技術についても、分野別推進戦略の重点研究課題として取り上げられている7)。以下では、取り上げられている各課題について紹介する。

 (1)安全・安心社会を実現する材料・利用技術

  突発的な災害や事故から身を守るための防具用材料の開発および利用技術等の開発が必要とされている。例えば、地下施設・超高層ビルなどにおける火災などの環境にも耐え、安全かつ効果的な消火活動を行えるような、耐熱性と快適性を併せ持つナノファイバー素材等の材料技術および評価技術開発が課題として挙げられている。2008年までに性能についての要求レベルを明確にし、ナノテク消防防護服に求められる耐熱性能・快適性能・運動性能などの性能・機能の評価方法について研究を行い、先進消防防護服の開発を行う計画である。

(2)様々な用途の建物・施設における火災時の安全確保

  2010年度までに建物・施設に用いられている物質の燃焼特性をデータ化し、一般的な建築物・地下施設・超高層ビル等の様々な空間における火災進展について、コンピューターシミュレーションによる予測手法を開発する。また、この予測手法を利用して避難・警報等のシステムを高度化し、火災予防対策の強化や建物・施設等の各々の特徴を考慮した有効な消防戦術を確立する。

 (3)大規模地震時の危険物施設等の被害軽減

  2006年度中に、実規模タンクを使用した浮き屋根の揺動実験を行い、浮き屋根の標準的な改修手法を開発した。2010年度までに、大規模地震時の危険物施設等の被害軽減に関する研究開発を実施する。長周期の地震動に強い石油タンクの研究開発に代表される災害予防対策や、地震発生直後に石油タンクの揺れや津波による被害を予見診断する手法の研究開発などを行なう。併せて、石油タンクの耐震性に直接関わるタンクの健全性(腐食劣化の有無や度合い)を、タンクを開放すること無しに評価する手法を開発する。地震の揺れによる石油タンクの被害を精度よく、リアルタイムに予測する技術開発の概要を図表12に示す。

(4)大規模災害時等の消防防災活動支援情報システム

 大規模地震災害時等における被害軽減のためには、迅速かつ的確な初動対処が必要である。全ての災害対応の基礎として、防災情報の収集・伝達・分析の正確性・迅速性が必須である。例えば、リアルタイム火災延焼シミュレーションを活用することにより、震災などによる同時多発火災に対する最適消防力運用について、県内応援隊・緊急援助隊を考慮した災害地域の受援側における消防力最適運用システムを開発する。また、応援側においては、適正な支援部隊とその編成・展開に関する情報を提示できる消防力最適配備支援プログラムを開発する。具体的には、2010年度までに、国および地方公共団体の効果的な防災活動を可能とする支援システムや情報通信システムの開発を行うとともに、高度化した災害時の情報収集伝達・分析技術を開発する。図表13にその概要を示す。

 (5)特殊災害に対する消火方法・安全確保

  2010年度までに、特殊な施設・環境・原因による火災等の性状の把握と消火方法を確立する。その結果を踏まえ、2015年度までには、特殊な火災等にも対応した消火方法等の実用化を図り、消防隊員の安全を確保し、かつ負担を軽減することを目的とした支援機器を開発する。

 (6)化学物質の火災爆発防止と消火

  2010年度までに、新規危険性物質(例えば、リサイクル資源など)の火災爆発危険性を把握する。蓄熱危険性・自然発火危険性・爆発危険性等についての評価手法を開発し、データの蓄積を図る。化学物質の漏洩事故や火災事故に対応するため、タンク火災や漏えい油火災の消火および再着火防止技術等も開発する。

4‐2 消防防災科学技術高度化戦略プラン(第2期)8)

  2005年度までを目標年度とし、消防防災科学技術のあり方について外部有識者からなる消防防災科学技術懇話会(座長:上原陽一横浜国立大学名誉教授)での審議が行なわれた。ここで策定された「消防防災科学技術高度化戦略プラン(第1期)」 9)は、第3期科学技術基本計画との整合性を図りつつ、火災等災害の状況変化、科学技術の全般的動向をも考慮した改訂が実施された。この改定は、2007年2月に消防防災科学技術高度化戦略プラン(第2期)として消防庁より発表された10)

  このプラン策定にあたっては、全国100都市(政令指定都市・県庁所在地およびこれに準ずる都市)の消防本部を対象として、技術の導入・実用化の緊急性に関して下記10項目(76細目)のアンケートが実施され、その結果がプランに反映されている。

@情報化による防災システムの高度化促進

A住宅防火対策等の推進

B防災力の質的向上

C消防活動支援施設、消防活動用資機材等の高度化

D特殊災害対策の強化

E危険物施設等の保安対策の充実

F救急・救助業務の高度化

G環境への配慮

H国際化への対応

I国民保護のための仕組みの整備・充実

  本プランでは、重点的に取り組むべき研究開発課題を下記の4項目として整理した。

  • 高齢者など災害時要援護者に配慮した国民の安心・安全の確保
  • 大規模災害への備えの充実
  • 先端技術を活用した高度な消防防災活動の実施
  • 増加する救急需要への対応と救急業務の高度化

  そのうえで、科学技術を担う人材の教育体制の充実、消防防災科学技術に関する情報共有化の推進、国と地方および関係機関・業界とが連携した推進体制の充実強化が、実施すべき施策として挙げられている。

 

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5.消防防災科学技術の領域での科学技術に基づくイノベーションの実現

5‐1 実用化の出口における連携

 4章で紹介した各課題に対応するように、現在、消防防災科学技術の分野でイノベーション実現に向けて実施されている取り組みについて、以下に紹介する。これらの試みは、いずれも、「研究開発の結果、成果が得られているが、具体的な実用化の出口が見えない」状況にある研究課題について、消防防災の現場でのニーズから選別し、国が中心となって、産学官連携、府省連携、国・地方連携の枠組みによって、現場での科学技術イノベーションに繋げようとするものである11)

 (1)ナノテク消防防護服の研究開発

  ナノテクノロジーを活用した消防防護服の開発と次世代の消防防護服の研究開発は、図表14に示すようなものである。経済産業省の競争的研究資金により、素材の開発を民間企業と独立行政法人の研究所で実施し、消防活動現場におけるニーズの整理と評価技術を総務省消防庁で行なっている。府省連携および産学官連携の推進体制を図表15に示す。

(2)ヘリサットの導入配備

  ヘリサットとはヘリコプターと通信衛星との直接交信技術であり、(独)情報通信研究機構で開発されたものである(図表16)。現在、この技術を政府の消防防災ヘリコプターに配備しようとしている。2004年の新潟県中越地震の際には、ヘリコプターからの被災地映像の中継が、地上被害のために困難となり、情報伝達の脆弱性が明らかとなった。この研究開発は、将来の大規模災害時の非常通信確保の技術的解決を図ろうとするもので、大きな期待が寄せられている。

(3)偵察・支援ロボットの緊急援助隊への配備

 消防緊急援助隊の装備として国費で開発した機器を、地方自治体の消防本部で実戦用に配備し、試用することが進められている。図表17に示す機材は、1995年の地下鉄サリン事件の際に、救助活動に従事した消防隊員もサリン被爆した経験から開発されたものである。目標仕様として、「霞ヶ関の地下鉄ホームまで地上から浸入し、有毒物の分析・検出が可能(地上に戻ることは要求せず、回収は事態収集後という設定)」という設定で開発されている。消防本部での導入が可能となるよう、国費ではさらに、機能限定した廉価版の開発を継続実施している。本開発に関わった企業は、この技術を製品化し販売を開始した。

5‐2 研究開発成果を社会のイノベーションにつなげるために

  ここでは、やや一般的なイノベーション論に立ち返り、研究開発成果が社会のイノベーションにつながらない問題を考えてみたい。

  マキャヴェリは、社会改革の達成が困難である理由を彼の「君主論」の中で次のように指摘している。「新秩序の導入は、旧制度の下でうまくやっていた全ての人を敵に回すことになる。しかも、新しい秩序を受け入れた人も、恐る恐る受け入れているにすぎない。消極的になるには二つの理由がある。一つは旧制度にしがみついている人の恐怖心であり、もう一つは新しい制度への猜疑心である。」12)この言葉ことは、科学技術で社会のイノベーションを起こそうとする場合に置き換えても当てはまる。すなわち、新しい技術を導入しようとする時、下記のような2つの意味で抵抗を受けることがある。

  • イノベーションを導入しなくてもやってきた人々からは「現状で何が悪いのか」という声が上がる。
  • イノベーションを導入することにより達成されるものの効果(例えば、費用対効果比)が不確かで、「どう改革されるのか」が分からないと言われる。

  研究開発成果に基づく社会的なイノベーション実現を阻む障壁については、開発・事業化・産業化の各段階に、「デビルリバー(魔の川)」・「デスバレー(死の谷)」・「ダーウィンの海」などと名付けられている。安全安心のための技術を実現するには、俯瞰的アプローチ、すなわち、「問題の全体像把握」・「分野を超えた知の活用」・「問題解決志向の知識連携」を併せ持ったようなアプローチが不可欠との主張もされている。

  では、こうした障壁を超えて、研究開発成果を社会の現場のイノベーションに繋げるには、どうすればよいのであろうか。かつての米国のアポロ計画は、GPS・インターネット・ケブラー繊維などを社会にもたらした成功例と言われている。このような例を見ると、「先端技術成果とその製品は、初期においては実績の欠如から従来技術に慣れ親しんだニーズ側に受け入れられない傾向が強く」、したがって、「シーズ側の投資意欲が醸成されず」、「イノベーションが停滞する」という悪循環を解決することが、研究開発成果をイノベーションに繋げる鍵となると考えられる。

  「魔の川」・「死の谷」・「ダーウィンの海」を越えるためには、イノベーションサイクルを好循環させる方策として、初期段階において、先端技術とその製品を購入するハイスペックユーザーをファーストカスタマーとして確保することが重要であると考えられる。例えばGPS・インターネット技術・ケブラー繊維などは、米国の国防需要での調達に支えられ基盤を築いた。このように、ハイスペックな官公需が初期の開発リスクを負うとともに初期需要を創出していくことで、開発成果が一般の産業や民生分野に波及していくことが容易になるものと期待される。図表18は、経済産業省の報告書から引用した、ナノテク防護服に関する初期需要の政策的創出のイメージ図である。

  研究開発を担う研究者の多くが陥る間違いに、「目標達成には何を解決すべきか」ではなく、「自分は何が解決できるか」によって研究課題や研究の方向性を決めようとする点がある。「開発者が自ら使用者である場合」と「開発者と使用者が異なる場合」とでは、開発成果物の評価に大きな相異が生じるのが一般的である。「自分が開発した技術は重要視する」が「他者が開発した技術には批判的」という研究者の傾向も、イノベーションの実現の障壁となっている。この両者が相まって、「研究成果が上がっているのにもかかわらず、現場では使ってもらえない」という研究開発者の声と、「現場で使える研究成果がない」という現場の声が、平行線でとどまっている原因になっていると考えられる。すなわち、「開発する側の視点」と「使用する側の視点」の間の乖離の問題である。

  消防防災科学技術においても、初期需要の政策的創出のためにも、「開発する側の視点」と「使用する側の視点」の間の乖離の問題解決のためにも、開発段階からユーザーを巻きこむことが有効であると思われる。すなわち、研究開発された成果物が、消防防災の活動現場で使用されるというアウトカムにつながるためには、研究開発の体制だけは不十分であり、以下に掲げるような「調達までを見越した仕組み」をイメージすることが重要であろう14)

  • 開発時点から消防機関を巻き込んで行なうことが不可欠
  • 開発された物を導入する際の費用・効果についての客観的な評価手法を持つ
  • 調達を視野に入れて開発を行なうこと

  特に、官公需による初期需要の政策的創出の場合は、それらが客観的・合理的に行われるためには、導入を検討する新技術について、財務担当者や納税者に対しての十分な説明責任が果たされることが必要となる。したがって、例えば図表19に示すような評価技法を開発することが必要と思われる。

5‐3 消防防災の領域に固有な問題と科学技術コーディネーターの必要性

  最後に、消防防災科学技術に特有のイノベーション阻害要因を考えると、以下の2点が挙げられる。

(1)全体としても市場規模が小さい。

  日本の消防職団員の数(ここでいうユーザー数)は100万人程度である。日本全国の消防予算約2兆円の中で、装備費は10%以下にすぎない。

(2)日本の800強の消防本部が個別に資機材調達している。

 現状の資機材調達では、新技術の導入に関する司令塔が不在であり、開発モチベーションが働きにくい。

  このような消防防災科学技術に特有の問題を解決するには、国と地方の連携が重要であろう。国が主導する標準仕様策定とユーザーの要求仕様の絞り込み、さらには共同購入の仕組みの導入などの施策が有効であると考えられる。

  以上述べてきたような研究開発成果を、社会のイノベーションに繋げる仕組みが十分に機能するためには、研究成果の価値を客観的に理解・評価でき、説明できる科学技術コーディネーターの存在が重要である。現在の我が国では、こうした人材は得難く、これらの育成と設置が今後の鍵となると考えられる。

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1)安全安心のための社会技術 堀井秀之編 東京大学出版会

2)平成18年版消防白書: http://www.fdma.go.jp/html/hakusho/h18/h18/index.html

3)「消防の動き」:平成18年10月号:消防庁発行

4)首都高速道路中央環状新宿線: http://www.c2info.jp/keikaku/index.html

5)内閣府「大規模水害対策に関する専門調査会: http://www.bousai.go.jp/jishin/chubou/suigai/index.html

6)小型クローラ移動ロボット FRIGO-M: http://www.incom.co.jp/productnavi/index.php/product/37674

7)第3期科学技術基本計画: http://www8.cao.go.jp/cstp/kihonkeikaku/kihon3.html

8)消防防災に関する科学技術動向 科学技術動向 2005年3月、No.48

9)消防防災科学技術高度化戦略プラン(第1期): http://www.fdma.go.jp/html/new/131126yobo410-2.pdf

10)消防防災科学技術高度化戦略プラン(第2期) −安全が誇りとなる国−世界一安全な国・日本を実現、平成19年2月総務省消防庁: http://www.fdma.go.jp/neuter/topics/houdou/190215-2/190.215-2betten.pdf

11)消防防災科学技術研究開発事例集、平成19年1月、総務省消防庁

12)面白いほどよくわかるマキャヴェリの君主論 金森誠也、日本文芸社

13)ナノテクノロジーによる価値創造実現のための処方箋 (4つの国家目標と7つの推進方策) 平成17年3月31日 :経済産業省 ナノテクノロジー・材料戦略室

14)第2種基礎研究 実用化につながる研究開発の新しい考え方 吉川弘之、内藤耕 編著 日経BP社

 

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