1.はじめに
「通信放送衛星システム」は第3期科学技術基本計画におけるフロンティア分野の重要な研究開発課題の1つである1)。安全・安心の確保や長距離・広範囲の通信放送を担う衛星システムは、実用的な宇宙開発の代表的な成果であり、地上の光ファイバー網や海底ケーブルなどの通信システムと融合させてユビキタスネットワークを構築するために、現在では必須のインフラとなっている。衛星通信のメリットとしては、地上での災害発生に伴う通信途絶時に代替の通信手段として利用できること、地上インフラが未整備の離島や僻地などにも遍く電波が届くこと、テレビ報道や救急活動のように機動性が求められる現場で即時に活用できること、航空機や船舶など地上ネットワークと直接通信できない移動体での利用などが挙げられる。地上の通信放送インフラと宇宙の通信放送衛星システムは、現在では単なる競合関係ではなく、互いに補いながら役割分担する段階になってきている。
一方、科学技術の発展の観点から見ると、静止衛星を用いた通信放送システムは、既に商業的に衛星の製造や運用が行われており、技術的に成熟していて、もはや新たな技術開発の余地はあまりないという意見がよく聞かれる。それに対して「まだ衛星通信技術は成熟していない」という見方もある2)。(独)宇宙航空研究開発機構(JAXA)が作成した通信放送衛星の技術ロードマップにおいては、第3期科学技術基本計画で実施される新しい通信機能を実証した後、2020年頃まで衛星通信技術の高度化を進めて、インターネット・プロトコル(IP)に基づく共通化プラットフォームの構築、すなわち電話やテレビ放送を含めてインターネットへ融合化してゆくことや、21GHz帯利用による衛星テレビ放送の高度化などの技術進歩が想定されている。さらにその後のイノベーションとして、電磁波による通信から光量子通信へ置き換わる時代が来ると考えられており3)、欧州や中国では数年のうちに有人宇宙船と地上の間で量子暗号通信実験を行うことを計画している。
本稿では、現時点における通信放送衛星システムの利用面での有効性と、第3期科学技術基本計画期間(2010年度まで)に開発・実証される通信放送衛星システムを活用して安全・安心の確保や利用者の利便性を向上させようとする我が国の政策について概要を紹介する。また、欧州や中国において、今後数年のうちに地球規模の長距離での量子暗号通信実験を有人宇宙船と地上の間で行う計画があることから、萌芽期にある宇宙量子通信の研究動向についても述べる。

2. 利用面から見た通信放送衛星システムの有効性
2‐1.基本的な通信放送における衛星利用
我が国では、商業的な静止通信放送衛星として、日本電信電話(株)(NTT)の「N−STAR」(2000年以降、ジェイサット(株)に委譲)、(株)放送衛星システムの「B−SAT」、ジェイサット(株)の「JCSAT」4)、(株)宇宙通信(SCC)の「スーパーバード」5)などが定常的に運用されており、緊急情報の伝達・テレビ番組配信・通信教育・シンポジウムやイベントでの双方向の通信利用など、基本的な情報通信のニーズに合致した衛星通信利用が拡大してきている。衛星利用のメリットは1対1の2点間通信よりも、直接放送や1対多の通信において発揮され、通信放送衛星を利用した民間の多チャンネル放送がジェイサット社などの衛星通信事業者の収益源となっている。これらの通信放送衛星は、我が国が1990年に米国から要求されたスーパー301条注1)に合意して以来、国際調達されるようになった。
我が国では、これまでに米国製の衛星が欧米の打上げロケットにより30機以上打ち上げられている。2006年8月には米国のロッキード・マーチン社が製造したジェイサット社の「JCSAT−10」が欧州のアリアン5ロケットで打ち上げられた。2009年打上げ予定の宇宙通信の「スーパーバード−7」は我が国の衛星製造企業(三菱電機(株))が受注した。
全世界の通信放送衛星市場は年間3,000億円程度である。近年、地上の通信インフラ整備が立ち遅れている南米やアフリカなどの開発途上国では、自国の通信インフラ整備のために欧米や中国の企業が製造した通信放送衛星を相次いで導入しようとしている。このことは、人口密度の低い地域での情報通信において、通信放送衛星システムの優位性が高いことを示している。我が国にも、まだ山間部などには人口密度の低い地域があり、通信放送衛星システムを積極的に利用することで、地上システムよりも効率よくデジタルデバイドを解消することができると考えられる。
2‐2.災害・緊急時における衛星通信の利用
災害に強いロバストな通信系を構築するためには、地上の通信インフラが全く利用できない事態まで想定した対応策を準備することが必要であり、そのような応用研究及び製品化も着実に進んでいる。以下に衛星経由での通信の利用形態の例をいくつか示す。
[1]緊急時の瞬時警報システム及び一斉同報システム
気象庁や内閣官房などから商業通信衛星(スーパーバード)を経由して都道府県庁・市町村役場に地震・津波・火山噴火・気象・武力攻撃などの警報を即時に伝達する全国瞬時警報システム(J−Alert)6)が2004年から一部地域で稼動し始め、今後受信範囲が拡大していくと予想される。地震・火災・落雷・出水などの自然災害やテロなどの人災により、地上の通信ケーブルが損傷するような事態はいつでも起こりうるものと考えて、衛星通信を中核的な通信路とするシステムを整備していくことが重要な課題である。
また、災害・危機管理に関する情報を国民に即時に周知できる衛星を我が国の重要なインフラとして整備すべきである。このような衛星の必要性については、2005年3月にJAXAが発表した長期ビジョン7)の中で述べられている。
[2]被災現場での通信利用
被災地での通信インフラの確保はライフラインの中でも優先度の高いものである。2006年5月にインドネシアで発生した地震では、日本から陸上自衛隊や日本赤十字社、NPOなどが救援に赴き、被災地での救助活動で大いに貢献した。このような救援隊が必要とする通信手段の主力は、現地の地上での通信設備ではなく、米国のイリジウム衛星用の携帯端末8)であった。現地の通信路はトラフィックの輻輳で全くといっていいほど利用できない状況であったが、イリジウム衛星経由の通信により円滑な救助作業を行うことができた。イリジウムは低高度で周回する衛星であり、66個の衛星で全世界をカバーしている。中近東からアフリカにかけては、アラブ首長国連邦(UAE)の企業が運営するスラーヤ衛星の携帯端末9)が利用されている。我が国はこのような被災時の通信インフラ確保に関して立ち遅れている面がある。
[3]緊急用ヘリコプターの通信支援
我が国は航空機全体に占めるヘリコプターの割合が非常に高く、世界でも有数のヘリコプター大国である。このうち、災害救助用ヘリコプターは、大規模な地震や地すべり等の発生時に有効な災害対応手段となることが広く認識されている。しかし、地上の任意の場所との通信回線を持たないヘリコプターは、取得した写真やビデオ画像等を単独では伝送することができず、通信中継のために地上側の支援が必要である。例えば防災ヘリコプターが基地局から通信可能な距離を越える現場へ向うときは、情報収集車(ヘリテレ受信車)10)が防災ヘリコプターを追尾し、通信を中継する。しかし、災害発生時には、自動車が道路の寸断などで追走できない場合も生じる。
一方、救急医療用ヘリコプター(ドクター・ヘリ)は、我が国では2006年10月現在、9道県10箇所の病院や救急救命センターに配備され、多くの救命実績を上げている。しかし、救急医療用ヘリコプターに関しては米国や欧州諸国と比べて絶対数が少なく、立ち遅れていると指摘されている。救急医療用ヘリコプターには救急専用の医療機器を装備し、消防機関等からの出動要請に基づき、救急医療の専門医師や看護師が搭乗して、現場での救急医療や病院への搬送を行う。これらの緊急用のヘリコプターの運航上、地上との通信用周波数の確保が1つの課題となっている。このような緊急用ヘリコプターの運用について、周波数帯域が広い衛星通信で中継することが適切である。ヘリコプターは上部に巨大な回転翼(ロータ)を持つため、高速回転の隙間を縫って衛星と通信できるようなロータ回転角と同期する通信システムが必要になる。現在はアクティブ・フェーズドアレイ・アンテナ(APAA)を機体両側に搭載して、静止衛星との通信に試験的に成功したところである。
2‐3.移動体における衛星通信
[1]航空機及び船舶での通信利用
航空機や船舶のような移動体では、通信衛星を経由する通信技術や運用体制が整ってきている。
最近の旅客機では、機体上部にレドームを設け、360度回転可能なアンテナで常時衛星通信を利用できるようになってきた。Kuバンドを使用する衛星通信では降雨時の電波の減衰が非常に大きい場合があるが、高高度を飛行する旅客機では気象の影響を受けることなく、衛星の可視範囲で品質の良い電波を受信することができる。
船舶も航空機と同様に、地上の回線を利用できない移動体であり、見通し範囲に陸地がないような海域では、過去の短波無線通信に代わり、衛星通信が主たる通信手段になってきた。利用される衛星はLバンドを使用するインマルサット衛星が主流であり、比較的低コストのアンテナが多くの船舶に設置されている。インマルサット衛星は、現在最高通信速度が432kbpsと低速であるため、より高速な通信が可能となるKuバンドを使用した衛星通信サービス11)が開始されている。
[2]衛星経由のテレビ中継
良質な映像コンテンツを追求するテレビ映像制作部門では、事件や事故の現場の取材のために機材の迅速な展開と確実な画像送信を必要としており、テレビ中継車の技術が近年格段に進歩した。撮影態勢立上げの迅速化、ハイビジョンカメラによる画像の高品質化への対応、より充実した内容の番組の提供などの要求を満たすため、衛星中継によるニュース収集(SNG)システムが開発された。衛星中継ではアンテナの方向調整など通信路の確立に一定の時間を要するが、進歩したアンテナ技術を活用した移動体SNG中継車では、現場へ移動中に衛星との通信路を確立できるようになり、現場到着から中継開始までの時間的ロスを大幅に低減した。また、移動体SNG車載局では、従来の静置型中継に対し、走行中でも中継が可能になり、マラソン中継などにも利用可能となっている。さらに、衛星通信機器が小型化したことにより、SNG車内で映像編集を行う機器の搭載も可能となり、車体の小型化で駐車スペースの確保が容易になるなど、急速に新技術が盛り込まれてテレビ中継車は洗練された仕様になってきている。今後、準天頂軌道の通信衛星が利用できるようになれば、駐車位置の自在性の向上やアンテナの一層の簡素化・低コスト化及び装置の小型化などの改善が可能になる。


3. 第3期科学技術基本計画における通信放送衛星システムの目標
第3期科学技術基本計画の中では、「超高速インターネット衛星(WINDS/ウインズ)」、「技術試験衛星VIII型(ETS−VIII)」及びこれらの衛星の実現・実証を前提とした「高度衛星通信技術に関する研究開発」の3項目について、研究開発目標及び成果目標が定められている。
3‐1.技術試験衛星VIII型(ETS−VIII)
JAXAは携帯端末と衛星間の直接通信ができる衛星通信技術を実証するため、2006年度に技術試験衛星VIII型(ETS−VIII)12)の打上げを予定している。衛星バス、大型展開アンテナ及び高精度時刻基準装置の開発はJAXAが担当し、主要な通信機器の開発は(独)情報通信研究機構(NICT)並びに日本電信電話(株)(NTT)が担当する。
ETS−VIIIは、図表1に示すように、19m×17mの巨大なアンテナを2つ展開し、Sバンドで移動体との高速通信を目指す。地上側では、これまでの衛星通信用地球局の大きさが格段に小さくなり、携帯電話よりやや大きい程度になる。この衛星は、静止軌道上の重量が3トン級であり、我が国の静止衛星としては最大になる。衛星の大きさは、太陽電池展開方向が40m、アンテナ展開方向も40mである。衛星の要素技術としては大型展開アンテナの開発が最も困難であり、予備的な展開実験を行うために、アリアンロケット第2段に部分モデルを搭載して展開実験を行っている。1回目の実験は展開に失敗したが、2006年10月14日にアリアン5ECA型ロケットにより2回目の展開試験用ペイロード(LDREX−2)が打ち上げられた。衛星通信技術の実験としては、フェーズドアレイアンテナにより指向方向を自由に設定でき、マルチビームを用いて携帯型の電話及び高速パケット交換の実証を行う。スラーヤ衛星で既に実現されているような、静止衛星と携帯電話の間で直接通信ができるようになれば、新しい衛星通信技術の実証という目標を達成したといえる。また高精度時刻基準装置により時刻情報を発信し、GPSの測位実験も行う予定である。日本版GPSの実現に向けての1つのステップである。

3‐2.超高速インターネット衛星(WINDS)
JAXAは2007年度に超高速インターネット衛星(WINDS)13)の打上げを予定している。WINDSは図表2に示すような外観で、技術的な特徴としては、(1)アクティブフェーズドアレイアンテナ(APAA)による指向方向の自在な制御、(2)衛星搭載のスイッチングルータ(155Mbps×3チャンネル)による高速情報交換、(3)出力可変のKaバンド通信による天候に応じた出力制御、(4)ユーザ間を1ホップで接続可能とするメッシュ型ネットワーク、などがある。

WINDSで利用できる通信速度は、地上のアンテナ設備によって異なる。家庭用の直径45cmの超小型地球局(USAT)で受信155Mbps、直径1.2mの小型地球局(VSAT)では送受信とも155Mbps、さらに大型の直径2.4mのVSATでは622Mbps、企業等での利用を想定した直径5m級の大型地球局では従来にない1.2Gbpsの超高速衛星通信を行うことができる。
WINDSのアンテナのカバレッジは日本、近隣地域、東南アジアに配置されており、これらの地域の主要都市をカバーする。またオーストラリア・ニュージーランド・ハワイなどの地域にはアクティブフェイズドアレイアンテナのビームスキャンニングでカバーする。Kaバンド通信はデータ伝送量を大きくできるが、降雨減衰が大きい。出力可変の高出力マルチポートアンプ(MPA)により、降雨地域には出力を高めて降雨減衰の影響が出ないように送信することができる。
これらの技術的目標を達成することにより、衛星通信によるデジタルデバイドの解消や、地上ネットワークを利用できない場所でのインターネット利用が可能になる。
通常、商業通信衛星の中継器のリース料金は年間数億円にもなる。WINDSを用いた通信の利用については、総務省が公募を行う予定である。採択されれば、実験目的に合わせて地球局を準備し、高性能中継器を無料で利用できるようになる。日本国内だけでなく、東南アジアや太平洋諸国からの利用希望に対応することで、我が国の国際貢献にも役立つものと予想される。
3‐3.高度衛星通信技術に関する研究開発
総務省は、第3期科学技術基本計画期間中に、ETS−VIII、WINDSの通信用搭載機器を利用した衛星通信ネットワークにより、災害対応、デジタルデバイド解消、衛星インターネット等のロバストな通信手段の技術を開発し、実証を行う計画である。
また、災害対策・危機管理のための衛星基盤技術として、携帯端末による移動体衛星通信技術だけでなく、同じ搭載中継機で通常時の大容量基幹回線と災害時の多数の小容量ユーザ回線の両方を使用でき、状況に応じた衛星通信の使い分けを可能にする技術の開発等を行う。これにより、2010年度までに、大規模自然災害等においても衛星を利用して確実に情報を送ることができるシステムを構築するための基盤となる技術を開発し、国民生活の安全・安心の実現に資することを目標としている。図表3に高度衛星通信のイメージを示す。


4.光衛星間通信実験衛星(OICETS)の実験結果と今後の課題
我が国では、JAXAが光による衛星間の通信という新しい技術に挑戦し、予想以上の成功を収めた。図表4に示すような外観の光衛星間通信実験衛星(OICETS=「きらり」)は、2005年8月にICSコスモトラス社(ロシア・ウクライナ)のドニエプルロケットにより打ち上げられ、2006年3月までに主要な試験目標を達成し、さらに計画以上の成果を目指して実証実験を続けている14)。OICETSは世界で初めて、静止衛星と低軌道周回衛星間での光通信の実証に成功した。相手の静止通信衛星は欧州の先端型データ中継技術衛星「ARTEMIS」である。通信距離はおよそ4万km、相対移動速度は毎秒数km、レーザ光の広がり角は5マイクロラジアンで、双方向通信を行うことができた。
2006年3月に(独)情報通信研究機構(NICT)がOICETSの通信実験の一環として行った地上との通信では、衛星から地上への伝送(ダウンリンク)に関しては予想以上に誤りが少なく、大気ゆらぎの影響低減など目標値を上回る良好な結果が得られた。ただし、実験の途中で雲による回線断があった。
光を利用した通信は、現在の衛星通信で用いられているマイクロ波に比べて、通信速度を飛躍的に高くすることができ、今後ギガビット(Gbps)級あるいはテラビット(Tbps)級の宇宙通信ネットワークの実現につながる可能性がある。ただし、光通信の弱点は、通信空間の途中に存在する雲や水蒸気により甚だしく減衰することである。しかし、衛星間での通信においては、大気圏の影響がほとんど無視できるため、大容量高速通信が可能になる。さらに、衛星間での光通信は、アンテナの大きさを現在より画期的に小さくすることができる。これは衛星運用上、アンテナ駆動による姿勢擾乱の影響を受けにくいという利点を持つことになる。電波による通信は技術的にほぼ確立されており、衛星通信技術の開発は、将来的には光通信技術の性能向上が中心になってくるものと予想される。大気の影響を受けやすい地上−宇宙間の通信に関しては、降雨が少ない砂漠地帯の地上局や高高度を航行する飛行機や成層圏プラットフォーム(飛行船)を結ぶ中継システムも考えられる。

5.将来の衛星通信技術
5‐1.2020年頃までの通信放送衛星システム発展の展望
JAXAは2003年から2004年にかけて、衛星利用促進委員会の一環として「将来の衛星利用検討分科会」を設置し、「新たな通信・放送システム開発に向けて」と題する報告書を作成した15)。この中でETS−VIIIによる移動通信やWINDSによる超高速インターネット利用など2010年までに想定される技術開発成果を踏まえて、2020年までに中継機の小型軽量化や大容量化を図り、インターネットへの融合化、言い換えればインターネット・プロトコル(IP)化された共通プラットフォームによるネットワークが中心となる将来像を描いている。また、衛星放送システムに関しては、21GHz帯を利用する次世代放送システムへの移行も注目される。データ中継については、地球観測衛星が取得する大量のデータをデータ中継技術衛星(DRTS=「こだま」)が担っている。将来的にはOICETSの成果を引き継いで光通信により衛星間通信を行うようになると予想される。図表5は同報告書に示された通信放送衛星システムの開発ロードマップである。2006年8月25日の宇宙開発委員会において、総務省宇宙通信政策課が報告した「通信・放送・測位分野の宇宙開発の政策的重要性と今後の取組みについて」の中でも各技術についてより詳細なロードマップが示されている16)。

(画像クリックで拡大表示)
5‐2.量子通信への移行
図表5のロードマップでは触れられていないが、2030年頃には電磁波や光波による通信から量子通信へと置き換わり始める可能性もある。量子通信の技術開発はまだ世界的にも緒に就いたばかりで、実用化までの道はかなり遠いと思われるが、我が国でも官民ともに基礎研究を着実に進めている。我が国では、第3期科学技術基本計画における情報通信分野の重要な研究開発課題の1つとして、「2030年までに、情報通信の大容量化と高秘匿性を確保する量子通信技術を実現する」ことを研究開発目標としている。量子通信の技術には量子コンピュータや量子テレポーテーションなども含まれる大規模かつ複雑な応用システムも含まれるが、量子暗号通信は最も小規模かつ初歩的な応用であると考えられている。量子暗号通信の特徴は、もし伝送途中の量子信号が盗まれたとすると、その瞬間に量子の状態が変わってしまって、意味のないデータになるとともに、通信者の側では盗聴されたことが検出できる。このため、最も安全な通信方式であるといわれている。
量子通信は、量子もつれ合い(量子相関)や量子重ね合わせなどの性質を利用するものであり、従来の電磁波や波としての光を利用する通信技術とは全く異なる技術であることが示されている。次章で紹介するように、海外ではこの領域の基礎実験を宇宙空間を利用して行おうとする動きがある。
2003年から2005年にかけて科学技術政策研究所が実施した第8回デルファイ調査の中では、フロンティア分野の惑星探査技術領域の課題として「現在の光通信の100万倍高速の大容量通信を惑星探査衛星と行うための量子通信技術」がとりあげられている。地上において量子通信の技術が十分成熟すればこのような技術が実現すると予想される。デルファイ法によるアンケートの結果、技術的実現時期は2018年頃、社会的適用時期は2028年頃と予測された。

6.宇宙での量子通信実験を目指す各国の動向
量子通信技術は室内実験からフィールド実験へ展開され始めており、長距離の記録更新で世界的な競争が行われている。我が国では100km程度の光ファイバー経由の量子暗号鍵通信のフィールド実験が行われた17)。最も性能のよい実験例としては、送信側で1,000bps、100km先の受信側で10bpsという結果が得られている。光ファイバー経由では途中の損失が大きく、100kmの通信でビットレートが100分の1程度になり、中継なしで通信可能な距離を伸ばすことは非常に困難である。我が国では当面100km先で100kbpsを目標としている。
量子通信の別の方法として、光の直進性を利用する空間伝搬方式がある。地上で空間伝搬させる場合、地球が球形であることや、空気層による減衰・屈折などがあり、目標地点(受信側)への到達は最も困難な課題となっている。そこで、有力な方法として考えられているのが、いったん宇宙を経由する衛星通信方式である。米欧や中国では衛星−地上間の量子通信を目指す研究が行われている。
[1]米国の地上での空間伝搬実験
米国では、ロスアラモスの研究グループが空間伝播(光ファイバーを用いない方式)で10kmの量子通信に成功した。これは数百kmに及ぶ衛星−地上間と「光学的深さ」(optical
depth)が等価であり、宇宙空間を利用した高速量子通信につながる顕著な成果であるといわれている18)。
[2]国際宇宙ステーションを利用する欧州の量子通信実験計画
欧州では地上での空間伝搬により量子暗号鍵通信の長距離フィールド実験を行っている。ウイーン大学(オーストリア)のザイリンガー(Zeilinger)教授らのグループは、欧州宇宙機関(ESA)の光地上ステーション(OGS)を用いて、144km隔てたラ・パルマ島とテネリフェ島(いずれもスペイン・カナリア諸島)の間で量子もつれ状態(エンタングルメント)の空間伝搬実験を行った19)。同グループはさらに、地上での実験成果をより長距離で実証するべく、宇宙空間を利用した「SPACEQUEST」という量子暗号鍵配信ミッションを計画している。これは、国際宇宙ステーションに送信機を搭載し、宇宙ステーションと地上間の1,600km以上の距離で量子通信の実験を行おうとするもの20)で、欧州宇宙機関(ESA)に提案されて高い評価を得た。遅くとも2011年頃にはスイス・コントラバス社の光ターミナル2個を含む搭載装置が打ち上げられる見込みである。
[3]有人宇宙船を利用する中国の量子通信実験計画
中国では、2005年に中国科学技術大学の潘建偉教授が空間伝搬方式で世界最長となる13kmの距離で量子もつれ合い暗号通信に成功した21)。これに続いて、2008年打上げ予定の有人宇宙船「神舟7号」に量子通信の実験装置を搭載し、数百kmの距離での量子通信実験を行うことが計画されている。中国は、米欧に先んじて有人宇宙船を用いた長距離通信を独力で実現する可能性があり、注目される。中国が目指す量子通信の主要な用途は、現在の衛星通信と同様に地上の2地点間の通信を衛星経由で行うことである。マイクロ波通信を量子通信に置き換えることで大容量で秘匿性の高い通信を実現することを目指していると考えられる。
[4]我が国の宇宙量子通信の萌芽
我が国ではNICTが宇宙量子通信の研究を行っている。NICTはOICETSと地上間での光通信実験により宇宙空間での光通信技術の研究を行うとともに、量子通信の基礎研究も行っている。今後の研究の方向性として、我が国が得意とする宇宙ロボット技術と、萌芽期にある量子通信技術を組み合わせて、テラビット級の大容量・地球規模の長距離の量子通信のフィールド実験を宇宙空間と地上の間で行う方式が考えられる。独自の有人宇宙船を持たない我が国として、OICETSのような通信実験衛星でより長距離での宇宙量子通信を実証できれば、この分野で世界をリードできる可能性が高いと考える。今後、量子通信技術の進展に伴って、萌芽期にある宇宙量子通信にも関心が高まるものと予想される。

7.まとめ ―通信放送衛星システムの利用と技術開発のあるべき姿―
既に技術が成熟したとも思われる衛星通信技術であるが、第3期科学技術基本計画の中でETS−VIIIとWINDSがもたらす新しい通信技術により、従来の商業的な衛星通信から一歩踏み出した新たな利用技術が生み出されることが期待される。そのような技術を日常生活での応用に定着させることが重要である。そのためにインフラ整備や利用者の取扱い能力の向上など今から準備すべきことを以下に提言する。
[1]災害・緊急時における衛星通信の利用
最近頻発している大災害において、通信網に関しては大きな問題を生じていないため、地上の通信網の脆弱性に関して楽観視されているように思われる。通信インフラの破壊を伴う大災害は天災・人災を問わずいつ起こっても不思議ではない。また、通信路が破壊されていなくても通信の輻輳によって回線が接続されにくくなるという状況はしばしば見られる。宇宙インフラはそのような地上インフラの弱点である災害時の通信途絶や通信トラフィックの輻輳などの脆弱性を補うものである。従って、「災害・危機管理に関する情報を国民に即時に周知できる衛星」を我が国の重要なインフラとして整備すべきである。当然のことではあるが、災害発生時にどのような情報をどのように伝達するかという、ソフト面の検討や実作業の確実性を重視する必要がある。衛星通信を中核とする全国瞬時警報システム(J−Alert)の効果が充分に発揮できるように、伝達ルートの整備や非常用電源の操作等、訓練や演習を行うことが望ましい。自治体職員だけでなく、各地域のシニア技術者が参加するような取組みも考えられる。
[2]利便性を向上させる定常的な通信放送衛星システム
より利便性の高い移動体通信やユビキタスなインターネット接続環境などを実現する上で、試験的に行われるETS−VIIIやWINDSの通信機能を継続的に利用できるようにする必要がある。定常的な衛星システムは米国のスーパー301条により国際調達を行うことになるが、我が国の技術開発を推進する上で、このことは必ずしも障壁ではない。我が国の国益や安全保障のために必要な衛星について、我が国が独自に研究開発した世界最高水準の機能を含む仕様を広く世界に提示して国際調達を行えば、我が国が開発した機器を搭載した衛星が選定される可能性は非常に高い。そのような状況に誘導するためには、継続的に技術開発・製造・運用体制を整えるべきである。
[3]衛星通信技術を土台とした将来技術の研究促進
第3期科学技術基本計画における通信放送衛星システムの目標を実現した後、我が国はこの領域でどのような方向に技術開発を進めるべきかも考えておく必要がある。電磁波による通信の大容量化・高精度化・インターネットへの融合などの改良技術だけでなく、例えば量子通信技術の研究の場として宇宙を利用することが考えられる。量子通信技術は社会に適用するまでには新しいフォトニック素子や通信方式の開発など多くの研究を行う必要があり、我が国が培ってきた衛星通信技術を土台として、数千kmから数万kmの長距離を空間伝搬させる宇宙量子通信の研究を促進することも一つの方向性であると考える。

謝 辞
本稿を執筆するに当たり、総務省松本正夫技術総括審議官及び宇宙通信政策課小出孝治衛星開発推進官、(独)情報通信研究機構新世代ワイヤレス研究センター田中正人宇宙通信ネットワークグループリーダー並びに豊嶋守生主任研究員、(独)宇宙航空研究開発機構飯田尚志理事・辻畑昭夫ETS−VIIIプロジェクトマネージャ並びに中村安雄WINDSプロジェクトマネージャ、三菱電機(株)情報技術研究所松井充情報セキュリティ技術部長並びにIT宇宙ソリューション営業第二部堂前光洋部長、ジェイサット(株)永井裕技術本部長、新衛星ビジネス(株)小嶋弘常務、アクアテック久宝啓作社長らに資料提供及び討議を頂いた。ここに関係の皆様に深く感謝の意を表します。
|