1.はじめに
現代社会における科学技術の位置を考えれば、科学・工学と人文社会科学との共同作業という意味での「文理融合」は、科学技術政策の極めて重要なテーマであり、第三期科学技術基本計画1)においても、環境分野を中心にその重要性が繰り返し強調されている。
しかし、本稿では、このような「文理融合」とは全く異なる形での、科学技術の人文社会科学への「関わり」が、日本における情報通信分野、特にソフトウェア分野の発展・衰退の鍵を握る可能性があることを指摘する。そして、その観点にたっての科学技術政策の必要性を提唱する。
本稿は日本のソフトウェア分野の「弱さ」を合理性の観点から論じた「科学技術動向」2004年9月号の特集「二つの合理性と日本のソフトウェア工学」2)の論考を発展させたものである。前稿ではソフトウェア技術に論点が限定されていたが、本稿では情報通信分野一般さらには科学技術を生み出す研究者の社会システムについても論じる。この「思想」の問題は、情報技術分野だけの問題ではない。近い将来ほとんどの科学技術が、さらには社会全体が、急激に「情報化」「サイバー化」注1)される傾向にあることを考慮すると、「思想」の重要性に着目した科学技術政策、特に人材育成政策の必要性が極めて高いと予測されるのである。
1‐1.本稿における「思想」の定義
本稿の目的はあくまで日本の科学技術振興に供する議論を行うことである。その目的からすれば、日本語においては、社会的あるいは政治的思考体系を意味することが多い「思想」という言葉の通常の使われ方は本稿の議論にはそぐわない。本稿でいう「思想」はカント哲学やマルクスの思想ではなく★、「トヨタ生産方式の実践哲学」などという時の「哲学」に近いからである。そこでまず、本稿でいう「思想」をできる限り明確化する作業を行い、それを基礎に「思想」の必要性について論じる。
広辞苑によれば「思想」とは、以下のように説明されている。(1)考えられたこと。(2)〔哲〕
(イ)判断以前の単なる直観の立場に止らず、このような直観内容に論理的反省を加えてでき上がった思惟の結果。思考内容。特に、体系的にまとまったものをいう。(ロ)社会・人生に対する全体的な思考の体系。社会的・政治的な性格をもつ場合が多い。
本稿においては、この定義の内、「(2)の(イ)」でいう体系性と、「(2)の(ロ)」の全体性に着目し、「思想」の定義を図表1のように与える。

図表1の定義に従えば、精神(開拓者精神、探求精神)、哲学(日本のものづくり哲学)、文化(企業文化、トヨタ文化)、スピリット(フロンティア・スピリット)、魂(技術者魂)、主義・イズム(Taylorism、Fordism、合理主義)などと呼ばれるものは全て、「思想」になる。通常の言葉の使い方とは一致しないほどに、用語の意味が拡張されているため、技術系分野の用語までもが包含されるのである。この用法を使えば、例えば社会学者M.ウェーバーの著作
「プロテスタントの倫理と資本主義の精神」は、「プロテスタント思想が、近代資本主義思想を生んだ」という思想と思想の因果関係を説明する著作であると理解することができる。

2. 情報通信技術における「思想」―ソフトウェア工学とインターネットの開発―
次に、本稿の意味での「思想」が現実にはどのようなものか、情報通信技術史の中で現れた三つの顕著な例を通して説明しよう。これら三例の説明から分かることは、科学技術における「思想」には異なる相があること、そして、米国主導の情報通信技術の開発の歴史には、「思想」というものが正負両面で色濃く関わっていること、である。
最初の例では、ソフトウェア生産技術の最近の動向における「思想」の役割を説明する。これはシステムとその開発過程において有益な技術としての思想の話であり、筆者たちが行った論考の拡張である2、3)。この例での「思想」は二つの意味を持つ。まず、それは個々のソフトウェア開発プロジェクト中に固有の、比較的短期的、小規模に継続するもので、「このシステムの設計思想」というときの「思想」に近い。つまり、この例の「思想」は、具体的かつ個別的であるという意味で「下位レベル」の「思想」である。そして、そういう「個々の開発プロジェクトにおいて、そのプロジェクトに固有の下位レベルの思想を持つ」という態度が、ソフトウェア生産の新パラダイムとして、1990年代後半から盛んに提唱され始めたという事実を指摘する。これはソフトウェア開発工程パラダイムの大変換であり、これは長期的かつ個々の開発に属さず一般的であるという意味で、他の2例に見られるような、「上位レベル」の「思想」である。
その「上位レベル」の第2の例は、情報技術が社会に直接に与えた最大のインパクトといえるインターネットの開発史において「思想」が果たした役割である。そして、最後に同じく「上位レベルの思想」の典型例として、最近の情報技術の大きな潮流として語られているWeb2.0を、本稿の「思想」の観点から分析する。Web2.0は新技術の総称ではなく、明確な「思想」の体現なのであり、それは他の二例と同根のものであり、現在の社会の変化と強く連動するものなのである。
2‐1.ソフトウェア開発と「理論技術」「思想的技術」
現代のソフトウェア工学の傾向は、ソフトウェア技術者に「理論技術」や「思想技術」と呼ぶべき能力を技術者に要求し始めている。米国の著名なソフトウェア・コンサルタント、A.コーバーンは、最近の著書4)で、2006年チューリング賞受賞者でもあるP.ナウアの「ソフトウェアの開発は『理論構築』である」という説(Programming
as Theory Building)をソフトウェア開発に従事するものの実践的知識として紹介している。ナウアの「理論」は印刷可能なルール集(プログラム、仕様)のことではなく、それを作り出す人間(プログラマ)のみが持つ知識(特にそのルールの作り出し方の知識)と、ルールの作成プロセスとメンテナンスの活動の総体を言う。ナウアの「理論」はイギリスの哲学者G.ライルによる用語であり、そのライルは20世紀を代表する哲学者ヴィトゲンシュタインの思想に影響を受けたことで知られる。コーバーンの同じ文献4)では、デザイン研究家P.エーンによる「ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム概念に基づくソフトウェア開発の説明」も紹介されているので、コーバーンはヴィトゲンシュタイン哲学(思想)の線上でソフトウェア工学の実践知識を語っていることになる。ナウアの意味での理論構築とは「実世界における活動(activity)のある側面を計算機上の形式記号操作に結びつける(match)」という活動(activity)であり、この見方に従ってナウアはプログラマ教育における「理論構築の訓練」(exercise
of theory building)の重要性を強調した。
このような、コーバーン、 ナウアと同傾向の思想は、最近のソフトウェア工学の一大トレンドとも言える。たとえば、世界最初のプログラム開発法とも呼ばれるジャクソン法注2)などの創始者であるM.ジャクソンの、最新の理論
Problem Frames5)にも同じ傾向が顕著に見られる。また、コンポーネント開発法注3)で知られる
D. ドゥソウザも、数年前から、この傾向を強調するようになり、現在、独自のソフトウェア開発思想を構築しようとしている6)。
これらはソフトウェアの生産性向上に結びつくという意味で「技術」として捉えるべきである。つまり、この節の導入部の言葉を使えば「下位レベルの思想」であり、また、ライル‐ナウアの「理論」という用語を使って言い換えれば、科学理論と対置されるものである。近代科学理論が西欧の哲学思想に多くを負っていることは周知の事実である。デカルトの哲学、ライプニッツの哲学、そしてニュートンの思想などが、個々の科学理論の発生に対して、あるときは正の、あるときは負の影響を与えたのである。思想が科学理論を文化や社会に統一的に埋め込む役割を果たし、そして、その故に科学技術が思想に変化をもたらしたのである。この事実からすると、個別理論としてのシステムの開発を統合するものは「思想」であることになる。つまり、コーバーン、ジャクソン、
ドゥソウザが提唱するものは「思想」なのである。
この事実を端的に表しているのが、参考文献2)でも紹介した2000年代になって急激に普及し始めた最新のソフトウェア技術
Agile法である。Agile法はジャクソン法などの通常の開発方とは異なり、実際にはAgile allianceと呼ばれる開発方法の「連合」であり、Agile
manifestと呼ばれるソフトウェア開発についての価値観を共有する者が、その連合に参加できる。つまり、Agile法を「定義」しているものは、「価値観=思想」なのである。Agile法は、開発チーム内のプログラマ間の人間関係が開発の成否を大きく左右するという「思想」に基づく。これはライル‐ナウアの「理論」が紙の上だけにではなく、それに携わる人々の心の中にあることを考えれば当然のことである。人間が「理論」の記憶装置や生産装置になっているのであるから、その装置の心のありよう、たとえば、変化に対する勇気、チーム内のコミュニケーションを円滑にするための謙譲などの心の特性が生産に影響を与えることとなる。Agile法では、このような技術者が持つ「心の特性」の重要性が強調され、「良い心の特性」を持つことがプログラマの持つべき「技術」であるかのように議論される。これらは、従来日本的「企業文化」として改善運動などで強調されてきたものに非常に近い。実際、後の章で説明するように、このAgileと言う思想は、トヨタなどの日本の生産・経営思想の影響を受けていることが知られている。このことも
Agileが実は思想と呼ぶべきものであることの証拠の一つである。
つまり、現代の最新のソフトウェア工学は、「個別理論」としてのシステムを作り出す「理論技術」(「モデリング」と呼ばれている技術)と、それを伝達可能・学習可能にするための用語や言説の体系としての「思想技術」から成っているといえる。
2‐2.インターネット開発史における「思想」
前項で最新のソフトウェア工学を事例に「思想」について論じたが、次は、現代の情報通信技術の黎明期からの事例について論じる。20世紀最大の発明の一つといえるインターネットの開発史において「思想」が重要な役割を果たした。ほとんどの人間が、その可能性や完成時の姿を想像できなかったインターネット技術は、ある人物の「思想」に導かれて生まれたのである。
ウォルドロップ7)と喜多8)の著作により、インターネットの開発初期において、J.C.R.リックライダーという一人の心理学者の「思想」が重要な役割を果たしてことが指摘されている。特に喜多の著作「インターネットの思想史」では、その題名に「思想」という言葉が入っている。インターネットの開発史が一種の思想史、技術思想の進化史、として把握されているのである。
現代のIT社会の基本的イメージであるネットワークにより接続されたパーソナルなコンピュータ群、というイメージは、それが登場する以前の1960年代から70年代においては、必ずしも支配的な技術イメージではなかった。インターネット以前の情報・通信の世界は、その一つ一つが科学史に残るほどの優れた研究が、アメリカ全土に散らばった研究グループによってなされていたが、それらのグループが目指す方向はバラバラであり、互いに闘い競争していたのである。また、それらのグループは、時として技術者故の発想の限界、既存技術への拘泥とユーザーの視点の欠落に囚われていた。
しかし、これらの技術群は、リックライダーという心理学者が1950年代終わりから1960年代初頭において提唱した「マン・マシン共生」「思考センターのネットワーク」などの「思想」によって一本化され、それに導かれながら現実化されていったのである。情報技術の素人といえるリックライダーは、技術に囚われないユーザーの視点をもちつつ、SAGEシステム注4)というコンピュータ開発史に残る画期的システムのプロジェクトに参加した経験により、技術的可能性の大まかな目星をつける能力を持つ科学者だった。そういう科学者が、偶然にもARPA(米国高等研究計画局)の要職につき、自分の思想に従って湯水のように使える資金を得て、その資金を、そのころ育ちつつあった要素技術に、彼の思想を基準として惜しみなく与えたのである。
自分が向かう港を知らない船には順風も逆風もない、という哲学者セネカの言葉は、多くのソフトウェア開発プロジェクトが、その「目的」(要求)の同定に失敗することにより最終的に失敗することへの警告として、ソフトウェア工学の一分野である要求工学でも引用されることがある。リックライダーは、自らの思想によりインターネット開発という目的の港の方向を示したといえる。
たとえ優秀な数多くの研究グループが存在しても、インターネットのような総合技術の場合、それらのグループが全体としての思想に欠け、自らの思想にのみ従ってテンデンバラバラの目標に向かって進むとしたら、それはバラバラの目標に向かって必死で櫂を漕いでいる船乗りたちのようなものであり、互いの力が相殺されてしまう。これに反して、たとえ弱い力であっても、それが一方向に向けられ束ねられるならば、時として大きな力を発揮することになる(図表2)。図表2の(a)の様な情況で、リックライダーは研究資金という「研究の環境」によって、多くの研究者たちが気づかない形で緩く方向付けを行い、目指すべき港を示したのである。そして、インターネットが立ち上がった。その後は社会のニーズ(メール、Web)が港の役を引き継ぐ形となり、現在のような殆どの専門家が夢想もしなかったようなインターネットの急速な普及がもたらされたのである。

2‐3.Web2.0とOpenの思想
最後の例は、リックライダーの思想が生んだインターネットの「最新バージョン」とも呼ばれるWeb2.0である。Web2.0はソフトウェア書籍の出版で著名なT.オライリーが2005年秋に提案した概念で、日本では梅田の新書9)の出版により広まった用語である。しかし、これがどんな「技術」なのか、検索エンジンGoogleが関係しているらしいことは分かるが、オライリー自身の論説10)を読んでも、Napster、Wikipedia、Blog、web
serviceなどの分かりやすい既知の技術と一緒に、syndication、participationなどの「方針」「態度」というべきものが並んでいるだけで、「これがWeb2.0技術だ」ということはどこにも書いていない。
実はWeb2.0は、Agileが「思想」を共有する連合(alliance)であるように、同じ「思想」を共有する情報通信技術、あるいは、それによるサービスの概念の集団なのである。つまり、Agileの実体を求めれば、Agile
manifestに象徴される「思想」でしかないように、Web2.0に実体を求めるならば、「Web2.0の思想」以外にはないのである。だから、この思想の真髄を分かりやすく「説いている」ものがソフトウェアに関する文書である理由はなにもない。著者の知る限りでは、このWeb2.0という「思想」と本質的に同じものを最も明瞭に提示しているものは、アメリカのジャーナリスト、T.フリードマンがグローバリゼーションの「新バージョン」として提示している「フラット化する社会」という概念である11)。Web2.0は、このフラット化の情報技術版であると同時に、そのフラット化を支える最大の技術要因の一つなのである。
単純化して言えば、Web2.0という「思想」は、情報通信技術を用いて多くの人間の知性を個々のCPUとして接続し、社会を巨大なサイボーグ的知性に化そうとする「思想」であると理解できる。このように考えれば、この「装置」の「性能」が、個々のCPUである人間の「性能」、また、その集団が属する社会の「性能」で決まることが理解できる。その結果、例えば、Google、Wikipediaなどの「情報装置」の「品質」「精度」を高めるという問題は、従来の科学技術の問題ではなく、むしろ社会政策、教育政策の問題であることになる。フリー辞典Wikipediaの品質は、その使用言語により大きく違う。日本語のWikipediaの品質は英語のWikipediaより一般に劣るが、これは日本語を使う人間の集団の人口数と英語を使う人間の集団の人口数、また、その総体としての「品質」という、言語集団の「性能の格差」として理解することができるのである。そして、Wikipedia、Google等が、当然のこととして教育の現場に入り込んでいることと、日本社会の英語能力の低さを考慮すると、この「性能の格差」が拡大再生産される可能性が大きい。
また、この「装置」を商取引に応用した場合の「商取引の構造変化」として説明されるロングテール現象9)などの動向を、このような社会に対する社会科学的分析なくして予想することが不可能であることも自明であろう。それは経済原理だけでなく、国境を越える場合は言語や文化の問題、また、一つの社会の中では価値観の問題などを抜きにしては語れない問題なのである。
さらに注目すべきことは、このWeb2.0やフラット化の「思想」は、孤立した特殊事例ではないという事実である。その根底に流れる最も重要な要素は、ソフトウェアにおけるopen
sourceの運動と同一のものである。つまり、あまりに巨大でしかも迅速に変化するゆえに、有意味な時間内でその未来を理論的に予測することが不可能な「存在」を対象とする問題解決では、なるべく多くの制約条件をオープンにし、同じ目的と思想を共有しながらも互いに独立な、多くの人々のネットワークにより暫定的な解を共有し、その解をこれらの人々のネットワークによる不断の修正によって漸進的に改善していく、という社会的共同作業が最善の方法である、という思想である。
この思想を「知識の探索」に応用すればGoogleになり、辞書作成に応用すればWikipediaになり、ソフトウェア開発に応用すればLinuxなどのopen
sourceとなる。また、カスタムソフトの開発チームに限定的にこれを適用すればAgile法となる。前節で述べたインターネット開発の場合は、目的の共有が弱かったものの、それを研究資金の配分を支配するリックライダーの「思想」が、それを代替したと言うことができる。最近耳にすることが多くなった「集合知」も、この思想と深く関連する。単純化して言えば、これらは、「社会集団の持てる力を、その各人の自由を最大限に保障することにより、また、それらの人員を教育などの手段により『標準化・平準化』することにより、社会全体を比較するものが無いほど強力な生産装置とする方法」なのである。この「装置」においては、知がその利子として知を生むという自律的拡大再生産が起きるのである。それは「思想」である以上、Web2.0という言葉の流行が終わっても、再び同じようなものが何かの形で沸き起こり、それが将来の社会、科学技術の姿を大きく変えていくと思われる。

3. 「負の思想」と日本の懸念
以上では、情報通信分野において、その黎明期より現代まで「思想」が大きな役割を果たしたこと、また、現在、さらにその傾向が加速しつつあることを、三つの事例を通して解説した。しかし、「思想」が常に良い影響を生むわけではない。この章では、科学が思想から受けた負の影響の幾つかを紹介するとともに、日本における情報通信技術の「無思想」という「思想」が、日本の科学技術全体に及ぼす可能性のある負の影響について論じる。
3‐1.負の「思想」とその影響
すでに触れたように、科学の歴史を紐解けば、科学が思想から受けた影響は大きい。これは多くの科学者も賛同することであろう。しかし、影響は正のものだけとは限らない。2‐1の論点によれば「思想」とは「理論」の開発を導くものである。科学理論も「理論」であるから、「理論」を一つの技術分野に対応させれば、この場合の「思想」は「メタ科学技術」といってもよい。あるメタ科学技術に支配された科学技術は、当然ながらそのメタ科学技術に左右される。今までの例は、すべて成功例ばかりであるが、メタ科学技術の間違いが、科学技術に悪影響を与えることも少なくない。
たとえば、デカルト研究者として世界的に著名な哲学者小林道夫は、デカルトの哲学がその物理学に与えた悪影響について語っている12)。現在の視点からみれば、自然科学者兼哲学者であったデカルトの思索においては、自然科学と哲学は一体であり、その哲学がその自然科学の方法論を正当化していた。デカルトは板をある点で固定して振るときの振動と同等な運動をする振り子を求めるという「等価振り子の問題」を正しく解くために十分な数学的技法を有しながら、それが彼の宇宙論の基本思想からすると、板とそれを取り巻く物質との相互関係が複雑すぎて、彼の数学では解けない問題と帰結されるが故に、その問題を「解けない問題」としてしまったのである。
また、不完全性定理にその可能性を否定された「ヒルベルト計画」注5)は、その提唱者である大数学者D.ヒルベルトが、まだ無名に近い時代に抱いた「すべての数学の問題は有限的に解決できる」という「可解性の思想」を、数学的に証明する試みであったことが、筆者等の数学史研究により明らかになってきている13)。ただし、ヒルベルトの場合は、この間違った思想が構造主義と呼ばれる20世紀数学思想誕生の契機となっているのも事実である。つまり、「間違った」思想が「正しい」思想を生む温床となるケースもあるのである。
また、ソフトウェア工学の歴史を振り返れば、Agile法の前身の一つである80年代のB.ベームのスパイラル開発法は、ソフトウェア開発は「要求仕様→設計→実装→検証→設置→メンテナンス」という線形の形状をとるというウォーターフォール・モデルへの思想的アンチテーゼであったが、結果的にウォーターフォールは長く保持され、それが与えた悪影響は多きいといわれている。これは「思想」が重要な役割を果たすソフトウェア工学における「負の思想」の典型例である。興味深いことにウォーターフォール・モデル脱却の大きな契機となったベーム
のスパイラル開発が提唱された1986年14)は、技術開発が「科学→基礎研究→開発研究→設計→製造→販売→市場」というリニアモデルでなくてはならない合理的根拠はないとしたS.クラインの開発のリニアモデル批判15)の僅か1年後のことなのである。また、この80年代中頃は、ソフトウェア工学におけるAgile法の源流のひとつとなった、米国版トヨタ開発法であるLean
manufacturingの研究がMITで開始された時期とも重なる。おそらく、この事実は、社会学的には、単純な近代合理主義的な「思想」が、日本のKAIZENなどの力に気付いた米国の工学から消え始めるという社会的現象として説明できるだろう。
3‐2.
情報技術の「染み出し現象」と日本の科学技術
もし、一国の科学技術の最も根源的な「思想」が負の作用をもたらすとしたら、その国の科学技術すべてに一斉にブレーキがかかることとなる。前節で述べた、米国における80年代半ばからの「リニア思想」離脱は、それ以前には米国の工学が「思想」により負の影響を受けていたことを示している。その離脱の契機となった、日本の技術には同様の懸念はないのだろうか。実は、著者は、その様な「思想」の負の影響が今後日本で起きるのではないかという懸念を持っている。
科学技術政策研究所により2000年に行われた第7回デルファイ調査16)は、通常これからの先端技術であると見做されていた情報分野の重要性が、2010年を境とすると、それ以後急激に低下するという興味深い調査結果を示している。追加調査により、その主な原因は、多くの研究者および技術者が、情報通信分野の技術が他分野と同化し始め、独立した一分野ではなくなると考えているためであると結論づけられている。逆に考えれば、すべてが「情報化」「サイバー化」してしまうという予測である。梅田が著書9)で「あちら側とこちら側」という言葉で説明したWeb2.0論とも共通する考え方である。
つまり、情報技術の多くは、現在未だに「情報処理」と称され、特殊かつ独立した技術の分野と目されているものから脱皮し、工学のあらゆる分野において、現在の数学に似た位置を占めることになると思われる。しかし、情報通信技術は数学とは異なり明らかに技術である。そう考えれば、これは「情報」と名づけられた技術分野がその殻を破り、他分野に染み出し始めている現象として捉えることもできる。これは多くの工学者や技術者が実感として感じている工学のサイバー化そのものであり、この傾向が止まるとは考えにくい。
実は、Web2.0とは社会のサイバー化がユーザーの参加を伴い限りなく進むという思想でもある。おそらくこのサイバー化現象はフラット化と共にさらに進むと考えるのが妥当なのである。もし、この「情報通信技術の染み出し現象」の予測が正しければ、科学技術全体がソフトウェア工学的な性格を強めてしまうことなるだろう。
ところが第三期科学技術基本計画1)では日本におけるソフトウェア分野の立ち遅れが指摘され、科学技術政策研究所の調査17)においても、米国に対する遅れが指摘されているのである。これは著者の前著2)でも根拠とともに指摘したとおりであるが、もしこれが前著2)の論点が指摘するように「合理性=思想」の欠如から派生するものであるとしたら、この日本の弱点が産業、社会全体に染み出すことになりかねないのである。中馬による半導体露光装置産業における競争力低下の研究18)は、この現象の具体的事例とみなせるだろう。すでに、このような事例が存在するだけに、この「最悪シナリオ」の可能性を無視してはならない。
「日本の科学技術には思想はない」という意見を耳にすることが少なくないことを考えると、この最悪のシナリオの可能性は大きい。実は、この「無思想」の危険性を100年以上前に指摘していた人物がいる。明治期の東京帝国大学の外国人教師E.ベルツである。ベルツは、明治34年、帝国大学在職25年記念祝賀会の折りの著名な演説19)において、日本の科学技術、より正確に言えば、その教育が進む方向への大きな懸念を表明した。ベルツは、当時の日本がその独立保持のために輸入しようとしていたヨーロッパの科学技術を、ヨーロッパの歴史が育てた「精神の大道」として、また、育てれば次々と成果を生む果樹に例えた。そして、ベルツは、(明治の)日本人は科学を世界中どこに据え付けても同じ生産物を生み出す機械のように捉えている、それではその場の果実しか得られない、我々お雇学者から科学の技術ではなく精神を学べ、と叱咤したのである。このベルツの批判が100年以上後の現在も適合すると感じる科学者や技術者は少なくないのではないだろうか。

4. 結 論
科学技術における「思想」の重要性について論じてきたが、以上に挙げたいくつかの事例における「思想」の役割は同一ではない。しかし、社会構造の複雑化と、それを克服するための標準化、情報化にともない、「思想」と呼ぶに値する「形や実体を持たないもの」を操作する能力の重要性が高まっているという点に関しては、これらの事例はすべて同じ現象の違う場所での発現と考えることもできるのである。
これらの多くは、従前には「教養」という名前のもとで分類されていた能力と同類のものである。そして、少なくとも日本においては、教養とは、直接には社会や社会における生産に貢献することがない人格形成のための知識として理解されていた。そのため著者を含めて、「役に立たない」文系的思想を持たないことに、むしろ誇りを見出していた技術者や科学者は少なくないであろう。
このような情況を反映して、日本の大学における「教養教育」の情況は悪化しているといえる。理系、特に工科系の学生の多くは、「思想」のような教養的な知識にはほとんど興味を示さない傾向があるし、教員の多くもその必要性を感じていない。しかしながら、本稿で紹介したように、科学技術において様々なレベルで「思想」が重要な役割を果たしてきていることは事実である。しかも、それが科学・技術史に残るインターネットの開発のような大きな事例だけではなく、日々のソフトウェア生産を担う「着実な技術」の現場での必須能力としても重要性を増しつつあるということには注目しなくてはならない。科学技術分野における技術としての「思想」の重要性は様々な分野で増大しつつあり、それは我々日本人の生存に関わる競争力の問題でもある。
Wikipedia、Google、ロングテール市場などの、Web2.0的傾向を社会科学的研究なしで予想することは不可能である。また、さらに重要なことは、このような傾向を、Web2.0というひとつの独立した「思想」として理解し、また、それを「思想」として共有することにより、より強力に推進し現在の優位を保ち続けようとする米国の情報通信技術関係者の動向の予測が不可能だという事実である。
米国においては、GoogleやWeb2.0が、経済人ではなく、コンピュータ科学の学生や技術者たちにより語られていることに注意しなくてはいけない。つまり、米国においては、インターネットの開発同様、情報通信技術者の多くが「思想」を元に新技術や新分野を創造しているのである。翻って我が国において、そういう技術や技術者を見る機会は極めて少ない。我々は競争力の根源が生産装置としての社会の「システム設計」に移っている時代に、未だに「構成部品」の精度向上にだけ力を注いでいるのではないだろうか。
このような情況を放置し続ければ、情報通信分野における米国との距離はますます開き、また新興のインド、さらには中国等の後塵を拝し続けることになるだろう。この様な問題は、科学技術者、また、科学技術政策立案者が持つ「思想」「思考法の形態」に大きく左右されるというのが、本稿の主張なのである。
「思想」が人間的なものである以上、このような問題に対処する政策としては、教育の改善しか考えられないだろう。リックライダーのような人材を育てる一つの方策としては、アメリカの大学で採用されているダブルメジャー制注6)の導入が考えられる。この方法は優秀な文系教員と、水準の高い理系学生を抱える大学においては、比較的容易に効果を発揮するはずである。しかしながら魅力のない文系の講義を、その能力に欠ける理系学生に押し付けることは、逆効果でさえある。また、すべての科学者・技術者がリックライダーのような地位につくわけではないので、このようなダブルメジャー制の導入には教育機関のレベルや目的を考慮することが必要だろう。
Web2.0のケースは、情報技術における「思想」「文化」を共有する多くの技術者・科学者たちが、科学政策などの「計画」に導かれるのでなく、自発的に共同して一つの目標を目指しているのである。そして、その「思想」の「伝播」は大学における教育を通して行われていることは、たとえばGoogle社、Yahoo社という二つの代表的ネット企業が、共にスタンフォード大学の大学院生たちによって立ち上げられたことに象徴されているといえる。この大学を中心とするパロアルトの「文化圏」の存在と重要性は、80〜90年代にスタンフォード大学計算機科学をひとりの計算機科学者として頻繁に訪問していた頃に、筆者が強く感じたことでもある。この新情報技術を生み出し育むシリコンバレーの風土と文化は、最近の梅田の著作9)に生き生きと描き出されている。このような環境を育て上げることは、まさに3‐2で引用したベルツの演説19)の「次々と科学技術の成果を生む果樹」を育て上げることなのである。
一方で、リックライダーの例を見れば、Web2.0のようないわば集団による創発ではなく、「思想」「ビジョン」を持つ人材を科学技術政策の中心に置くことが極めて重要な結果を生む場合があることがわかる。「思想」は容易に伝達できるものではない。その伝達は「技術」などよりはるかに難しく、暗黙知の性格を持っている。「思想」に導かれた科学技術政策を実施するには、「思想」「ビジョン」を持った優秀な研究者自身が実権を持ってプロジェクトを推進することによって好結果が生まれる場合があることを、この事例は示している。もちろん、その場合には、中心となる科学者に、政策立案者、政策実施者、政治家としての見識と技量が要求される。科学の歴史を紐解けば欧米には歴史的科学者ながら、総理大臣、閣僚、政治家、政策実施者を勤めた人物が少なからず見受けられる。翻って日本の場合、記憶に残るのは文部科学大臣を勤めた物理学者有馬朗人氏くらいしかいない。このような人材をより多く生み出すためにも、理系あるいは文系の一方のみに偏らない能力を育成するダブルメジャー制的な教育体系の主要大学における大学教育への導入が強く望まれる。
ソフトウェア工学についての議論で解説したような「理論技術」やそれに伴う「思想技術」は、著者の教育経験からすると、実際のプロジェクト等を通して、その有効性を教示すると、理系の学生にも比較的理解されやすいようである。この技術は「思想」とはいうものの、比較的具体的かつ現実的技術であり、たとえばデザインパターン注7)、UMLベース開発注8)などの実践を通して十分習得可能である。このような小「思想」への対応は、一見逆説的ではあるが、情報系学科におけるカリキュラムを演習・プロジェクト形式中心に改めることにより十分こなせるであろう。ただし、これは基本的にアプレンティスシップ(見習就職)やOJT(職場内訓練)を大学でやっているようなものであるため、そのような「思想」を理解し使いこなせる教員の存在が不可欠である。残念ながら、現在の日本の情報系学科では、本当の意味でのソフトウェア工学を研究している研究室は全国に数えるほどしかないという意見もあるほどで、このような教員の人材欠如という問題がある。人材を企業から求めようとしても、まだ企業自体にその力がない場合がほとんどであろう。むしろ企業は大学にこそ、その役割を求めているのではないだろうか。
このような情況を考慮すれば、海外の優秀な技術者による演習形式の教育、あるいは海外におけるアプレンティスシップの実施などの方策が必要であろう。また、リックライダー的な人材の育成においても、日本の大学における教育に拘ることなく、海外の大学における教育・研究の機会を考えるべきだろう。個別の科学技術においては、日本は海外に劣らない研究教育水準を持つことは明らかだが、本レポートで述べた「思想」を持った科学技術者、特に政策立案者の育成については、現在の日本の大学はその経験を殆ど持たない。このことにおいては、科学技術の長い歴史を有する欧米の大学から学ぶべき知恵は、ベルツの時代に比較しても殆ど減ってはいない。そのような人材の育成を目指して、積極的な留学生の派遣を考えるべきである。また、政策的観点をもつ科学者の育成の場合、学部学生や大学院生の期間には、政策的視点を吸収することが難しいことを考えれば、若手の研究者や技術者を、海外において政策立案に関係する職に就業させることにより、必要な「思想」スキルを涵養するという方策を考える必要もある。
このような観点から、日本においてWeb2.0論の口火を切った梅田等がシリコンバレーに在住して、その「思想」を吸収しており、また、日本の若者に彼と同じ経験をさせる運動を行っていることは注目に値する。このような非政府の組織による運動に対する支援も、政府機関がとりえる政策のひとつであろう。

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