黒川 利明
客員研究官
「国際標準(international standards)」(1)という言葉は、誰もがどこかで聞く言葉だが、それが具体的に何を指すかと言うことについては、各人各様の解釈がある。例えば、ISOネジに代表されるような機械部品の形状などを思い浮かべる人がいるかもしれない。あるいは、ISO9000という品質管理プロセスに関するマネジメント標準を考える人もあるだろう。ISO9000は、具体的な工業製品に関するものではなく、広くサービスまで含めて事業体(役所など、公共的なものも含めて)における品質保証への取り組みのプロセス(手続き)を規定している。商取引に用いられている交換文書の形式、最近では、ebXMLのような電子的交換形式の標準もある。さらには、材料についての標準もある26)。本稿では、これらすべてを取りまとめて、国際標準あるいは単に標準と呼ぶ(2)。
(1)International Standard(s)
国際標準。国際規格という訳語もある。国際的な標準化団体(Standard Development Organization)が定めた標準をいう。代表的な標準化団体には、ISO、IEC、ITUがある。ITUは国際連合の下部機関だが、ISOやIECは、非政府の非営利団体である。これらは、構成要員が世界中の国または地域を代表し、国際的な合意のための手続きを備えており、正当な(de jure)標準を作成する。国際的に通用しているものであっても、de facto標準、もしくは、団体標準(コンソーシアム標準とかフォーラム標準と呼ばれることもある。)は、こういう国際的な正規の手続きを取っておらず、そのために、de jure標準と区別される。ただし、団体標準が国際標準化団体の所定の手続きを経て、de jure標準になることがある。(2)standard
一般用語としての基準、規範、尺度という意味ではなく、国家ないしは団体が定めたものを特に「標準」と呼ぶ。“standard”の訳語には「規格」が宛てられることもある(例えば、平凡社の世界大百科)。一部の辞書では、「標準規格」という訳もある(例えば、プログレッシブ英和中辞典)。一般に、標準は、関係者の合意によって定められるもので、関係者の選定に始まり、その合意のための手続きが定められている。ただし、そういう手続きを経ないで、広く行き渡っているという意味での「事実上の標準(de facto standard)」もある。
本稿では、JABEEなどのようなカリキュラム標準は直接には扱わないことにする。理由の第1は、それらが産業標準の場での議論になっていないからである。第2の理由は、JABEEなどの高等教育に関しては、カリキュラム標準それ自体を別途十分に論じるだけの必要性があると思うからである。ただし、もちろん国際標準を担う人材教育をカリキュラム標準へ組み入れることを考慮する必要はあり、本稿でもその例は紹介する。
さて、国際標準は、1906年のIEC(International Electrotechnical Commission)創立から数えて、少なくとも百年弱の歴史があり、現在では、標準を支配すれば産業を支配できると言われるほど重要性が認識されている1)。このような歴史があるにもかかわらず、現時点で、国際標準を担う人材育成という主題を改めて取り上げるのには、3つの理由がある。第1に、経済および産業のグローバリゼーションが挙げられる。すなわち製品が全世界を対象にして、全世界で作られるようになっており、その中で国際標準の重要性が増している。すなわち、世界市場での競争優位性確保という点で、国際標準が非常に重要になっている2,25)。端的には、WTO(世界貿易機関)の「貿易の技術的障害に関する協定(TBT協定)」3)に見られるように、国際標準が国内標準に優先するようになってきている。携帯電話機の市場で、日本企業は国内標準のPDC(国内のデジタル無線通信方式)に長期間対応してきたため、現在、苦戦を強いられている。これに反して、欧州から発したGSM(100ヶ国以上で利用されているデジタル無線通信方式)は世界に普及し、欧米・アジア企業に有利な状況になってきている。アジア諸国におけるTBT協定遵守の動きは、極端な例としては、国際標準でない日本の二槽式電気洗濯機の輸入禁止というような事態まで招いた4,26)。
理由の第2には、日本国内の企業における人材育成の場の変化、すなわち、従来のOJT(On the Job Training)による人材育成の行き詰まり感がある。人材の専門化と短期的な利益指向のために、標準に携わる人材を長期的に育成することが多くの企業で困難となっている。人材育成に注目が集まるのは、標準の位置づけが変化しているためでもある。経済と産業のグローバル化は、企業の販売や調達だけでなく、技術開発においても新しい側面をもたらした。国際標準が確立することによって、製品やサービスの対象が全世界の顧客に広がり、大量生産による利点を享受できるようになる一方で、技術開発段階から国際標準への配慮が必要になっている。特許などの知的財産においても言われていることであるが、個別の製品あるいは部品開発の都度に標準化をどうするか検討するのではなく、企業体の将来像や目標を含めた大きな戦略の中で、世界を視野に置いた標準化への取り組みを適切に位置づけておいて、その枠組みの中で個別の研究開発や販売調達で標準をどう扱うか決定する必要がある5)。
第3の理由は、社会的見地における変化である。例えば、アクセシビリティに関する標準のように、現行の法制度を補完するソフト・ロー(3)として、さらには、諸外国との不必要な摩擦を避け、社会的な負担を引き下げるというようなことも標準に期待できるようになってきた。日本だけでなく欧米においても、標準に関する人材育成の問題と対策が大きく取り上げられるようになったのは、ごく最近の話である6)。標準の新しい位置づけに伴う人材不足は、日本だけでなく世界的な規模で生じている。
(3)soft law
訳語は未だ無く、そのまま「ソフト・ロー」と使われている。これは、国家による強制力がなく、自主的に遵守されることによって実現されるルール(規範)をさす。ただし、企業や個人の恣意に委ねられたものではなく、遵守することによる利益享受、遵守しないことによる経済的不利益、社会的批判がある。標準、行動規範(コード)、自主規制などがその例としてあげられる。遵守しないと刑罰や行政処分を科される法律であるhard law(ハード・ロー)と対比してこう呼ばれる22)。“Voluntary Codes”という呼び名もある24)。また、道路運送車両法、建築基準法、電気用品安全法、食品衛生法などは、標準をハード・ローの中で用いているため、単純に標準=ソフト・ローとは言えない。
標準のレベルには様々なものがあり、例えば、社内標準から始まって、業界標準、国内標準、EUなどの地域標準、さらに、ISOやIECなどの国際標準までいろいろとある。本稿で扱うのは、グローバリゼーションの必要性と言う背景から、あるいは、日本がどちらかと言うと苦手としているという側面からも、国際標準である。しかし、人材教育の内容は、社内標準等に携わる人材にも関わってくる。なぜならば、内部標準をより広い外部の標準とどう関連させるかは、常に問われる課題の1つだからである。
2‐1.北米での動き
(1)米国での動き
米国における産業標準は民間主導であり、それが他の諸国との大きな違いであると言われてきた。これは、米国における諸政策が民間からの提案及び議会の主導によって決定されてきたということを考えれば、米国における他の政策上の活動とむしろ合致している。標準の活動のみが特に民間主導であるというわけではない。米国商務省及び国立標準技術研究所(National Institute of Standards and Technology:略称NIST)の活動、ならびに、軍部における軍用標準(MIL)への関与などを考えれば、米国内でも、産業の標準化は国の関与が大きい活動と言える。歴史的にも、米国における標準は、政府の働きかけ及び戦時体制に対する軍部の要請によって普及してきたという歴史がある7)。
2004年5月に発行された米国商務省の「結果を出すための標準及び競争」8)という報告では、2003年3月から商務長官Donald Evansが主導した標準の推進活動(Standards Initiative)をさらに推し進めるために、新たに4つの政策と2つの長期的戦略が述べられている。その長期的戦略の1つが、科学技術及び経営の両学部において、標準に関するカリキュラムを拡充することとなっている。もう1つは、新技術の研究開発において大学とパートナー関係を樹立し、新技術開発の初期段階から標準に対する影響力を行使することである。そのような米国の大学における産業標準に対する活動の代表例としては、首都ワシントンにあるカソリック大学(The Catholic University of America)の世界標準研究センター(The Center for Global Standard Analysis)があり、これは1999年から活動している。ここでの受講者は法学もしくは工学の履修者となっており、文理融合の事例ともなっている。卒業者は、企業、標準化団体、米国特許庁を含む政府機関、及び法律事務所に採用されている9)。
しかしながら、同センターから出されている2004年3月付けの調査報告10)によれば、米国の工学系大学において、標準に関する講義を行っているのは、上記カソリック大学、コロラド大学ボールダー校(2004年9月からはコース廃止)、メリーランド大学の3大学に過ぎない。ビジネススクールにおいては、過去に標準に関する講義が提案されたことはあるが、実際には採用されていないと言う11)。
(2)カナダでの動き
カナダにおいては、カナダ規格協会(Canadian Standards Association:CSA)及びカナダ標準局(Standard Council of Canada:SCC)が中心となり、カナダ標準戦略(Canadian Standards Strategy:CSS)の中の重要戦略の一環として、人材教育を取り上げている。2004年1月にCSAとSCCは、カナダ技術者教育認定機構(Canadian Engineering Accreditation Board:CEAB)の政策委員会(Policies and Procedures Committee)に、学部カリキュラムの検討を行うことを提案し、受け入れられた。その内容は、(1)標準を技術系のカリキュラムに取り込むための要件、(2)標準に関する情報へのアクセス、(3)大学教官の標準への関与、の3項目からなる。さらに、SCCの2005年から2008年にかけてのカナダ標準戦略の更新版では、標準研究センター(Canadian Center for Standardization Research)の設置が検討されている12)。重点大学としては、University of Western Ontario、University of Ontario、Queens University、University of Waterlooが挙げられている。また、CSAにおいては、メンバーの教育プログラムを1998年から独自に実施しており、2004年8月現在で伸べ1,300人を超えるメンバーが受講している。
2‐2.欧州での動き
欧州委員会(The European Commission)の企業総局(Enterprise and Industry DG)では、標準化活動を重要な政策の1つとして捉えている。歴史的に見ても、商行為を含めて、複数の国にまたがった標準化のための活動は、まず欧州において始まった。複数の言語や制度の中で、共通の標準をどうするかという問題は、欧州で最初に取り上げられ、それが南北アメリカ、アジア、アフリカを含めた世界に拡大されてきた。
欧州委員会企業総局の標準化活動支援の一環として、大学とのネットワーク作りがある。大学とのネットワークに関する専用のウェブサイトが作られており13)、このウェブサイトには、標準に関連したコースのある欧州の20大学が挙げられている。それらを図表1に示す。このようなネットワーク構築の目的としては、(1)大学での意識向上、(2)大学及びその他機関との協働促進、(3)情報交換、及び(4)知識及びアイデアの交換普及が挙げられている。
2‐3.アジアでの動き
経済発展途上にあるアジア諸国においては、工業標準が産業政策の重要な柱の1つとして認められている。2003年に北京で開かれた「中日韓第2回東北亜標準協力セミナー」においては、三国間の協力覚書の第6番目の項目に、標準化人材育成計画が含められ15)、欧米の大学との共同研究の動きも始まった。さらに、2004年12月に東京で開かれた日中韓第3回東北亜標準協力セミナーでは、韓国から「2004年度には、理工系大学で標準化ゼミを11大学で実施した。2005年度については30大学が応募している。対象は、大学2年生から4年生。標準を専門とする教授が居ないので、企業や研究所の標準に関する担当者からなるチーム編成での講義を行っている。さらに、高校生を対象とした標準教育を検討中。これには、高校教師に対する標準のための教育も学校が休暇中に行う予定である」という口頭発表があった。このセミナーの終了後に取り交わされた協力覚書では、第3項・標準化育成計画として、「三国は、中国からこの項目について提案があったこと、また今回のセミナーに於いて韓国から理工系の大学教育等の実例が紹介されたことを認識し、引き続き一般的および個別のプロジェクト毎の情報及び資料の交換と相互に標準専門家人材の育成協力を行なうこととを再確認した。中国標準化協会が引き続き秘書業務を担う」と述べられている16)。特に韓国では、韓国規格協会(Korean Standard Association)の民間標準チーム(Private Sector Standards Team)が標準に関する教育を推進している。2005年度には、図表2にある33大学で標準に関するコースが設けられただけでなく、Future Society and Standardsという共通の教科書を編纂し用いている。大学院でのコースは現在計画中とのことである17)。この韓国での活動は、欧米からも注目されている18)。
また、欧州の大学(Helmut-Schmidt-University、University of the Federal Armed Forces - Hamburg、Erasmus University Rotterdam)と、中国(中国計量学院)、インドネシア(Institute of Technology Bandung)、スリランカ(University of Moratuwa)及びベトナム(National Economics University)の各大学とが共同して、標準に関する教育のためのカリキュラムを2006年に完成させようと言うAsia Link Projectがある19)。このプロジェクトは、すでにカリキュラム内容の概要を定めて、これから教材を詰めようとしている段階である。この作業には、EUの標準推進団体であるCEN、CENELEC、ETSI、各国政府の標準担当、ISO事務局などが協力しており、2006年のカリキュラム完成を目指している20)。
日本国内においても、標準を担う人材育成の重要性は認識されてきている。例えば、2004年5月27日に知的財産戦略本部が発表した「知的財産推進計画2004」21)では、標準化に関する人材育成の必要性が以下のように述べられている」に次のように述べられている。
「第3章 活用分野の第2項 国際標準化活動を支援する」
(1)戦略的国際標準化活動を強化する
3)標準化に関する人材育成のための環境整備を進める
大学その他の教育機関等において、標準化に関する人材育成が促進されるための環境整備を2004年度も引き続き進める。これを通じて、例えば、特に大学に対して、ビジネスに直結する標準化に関する人材の育成、既存の知的財産専門家コース、技術経営(MOT)コース等においては、標準化に関する教育の提供等が行われるようその自主的な取組を奨励する(総合科学技術会議、総務省、文部科学省、経済産業省、関係府省)」。しかしながら、このような認識が直ちに具体的な人材育成プログラムの実施につながっているわけではないのが日本での問題である。例えば、ここで挙げられている関係府省での活動が具体的にどうなっているか、どのようにそれを評価していくかが、まだ協議されていない。前項の日中韓覚書のように、中国や韓国が積極的に取り組んで実績をあげているのと比較すると、日本の取り組みは具体策が何も述べられておらず、実質的な活動は低いと判断されてもやむを得ない。
そもそも日本では、標準に関する大学教育の実情についてのデータも揃っていない。そこで、科学技術動向研究センターの専門家ネットワークを用いたアンケートを行い、合わせてインターネット等での情報収集を行い、日本国内における大学の状況を調べた結果が図表3である。これらをまとめると、(1)実施中の大学:実践女子大学、千葉大学、東京農工大学、東洋大学、奈良先端大学院大学、近畿大学、北陸先端科学技術大学院大学、(2)過去に実施した大学:早稲田大学、広島大学、(3)予定中の大学:御茶ノ水大学、山形大学であり、さらにそれ以外の多くの大学においても様々なコースの中で産業標準が取り上げられている。
図表3の大学数だけを見れば、日本は米国と欧州との間に位置すると言える。しかしながら、米国でのようなセンターもなく、欧州のように広く知られているというわけでもない。さらに、過去に実施して中止された場合もある。全体として、一貫した取り組みがなされておらず、ばらばらに行われているのが現状である。
標準を担う人材育成の議論では、次のような問題点を議論する必要がある。
まず、本稿の「1.はじめに」で述べたように、近年、標準を担う人材育成が注目されている理由は標準化の位置づけが変化してきているためであるにもかかわらず、そのような変化が認識されていないことが問題点の第1となる。(1)経済のグローバル化によって製品やサービスの対象が全世界の顧客に広がり技術開発段階で、標準への配慮が必要になったこと、(2)将来像や目標を含めた大きな戦略の中で、世界を視野に置いた標準化への取り組みを適切に位置づける必要が生じたこと、(3)社会的には、現行の法制度を補完するソフト・ローとして標準が使われることなどというふうに、標準の位置づけそのものが変化してきたこと22)を、多くの人々に正しく認識してもらう必要があるこの点は、知財やCSR(企業の社会的責任)などに関する人材育成などとおそらくは同様の議論になる。
第2の議論の焦点は、標準を担う人材とは、そもそもどのような技能を持つ人材を指すのかという点にある。従来、例えばプログラミング言語の標準に関わる人材とは、コンパイラ技術の専門家のことであり、言語標準の仕様を検討し、自社のコンパイラをどう作ればよいか考えるのがその役割だった。しかし、現在必要とされるプログラミング言語の標準を担う人材とは、プログラミング言語の設計段階で、その用途や動作環境、開発環境等を考え、標準化による市場の拡大確保による利益と標準化のために必要なコストを見積もり、標準化作業に協力してくれる団体や企業のめぼしをつけ、さらには関連する知財についての処理を考えることができる人材でなくてはならない。標準に関する人材に要求される能力は、CSRのようなマネジメント標準の場合なら、企業の経営戦略から財務、渉外と非常に広範囲なものになる。しかし、技術標準の場合でも、プログラミング言語の例で述べたように広範囲の問題を扱えなければならない。すなわち、これらの人材には、技術分野だけでなく法律や管理の業務、さらには、外国語による交渉力まで要求される。そのような多方面の技能を備えたスーパーマンのような人材は標準に関わらずあらゆる分野でニーズがあると思われるが、その中でも標準に関わる人材として本質的な技能は何なのかを明確化していく必要がある。
第3は人材育成に常に付きまとう問題だが、キャリアパスの問題である。少なくとも日本国内の組織では、標準が重要とみなされている業界においてすら、標準の担当者は重んじられていないと言う傾向が見られる。現在及び過去の人材に対する処遇の仕方、さらには現在及び過去の人材が自分たちをどう位置づけてきたかという結果によるものであるため、急激に変化することは望めない。しかし、基本的には、組織体、すなわち企業や国家等において、標準をどう位置づけるか、そして、そのための人材をどう処遇するか、という問題をどの程度重要と考えるかという第1の議論に帰着する。このことは、第4に、そもそも、国際標準のような自分の所属する組織の範囲を超えた大きな枠組みやそこでのルール作り、それも時間のかかる戦略的な活動をすることに対する評価や支援が、日本においては少なかったことが挙げられる23)。そのため、そういう人材のキャリアパスがないのではないかという上記の第3の懸念にもつながる。極端な意見は、これらすべての原因を日本人の国民性に帰着させるものだが、それでは何も生み出せない。時間のかかる戦略的な視点の導入とその活用は、標準に限らず他の分野でも必要である。
第5に、組織が標準に対してどのような立場をとるかという選択の問題がある。これは、第1の問題点とも重なる部分があるが、標準においては、過去の日本がそうしてきたように、決まってしまった標準を取り入れ、従うだけでよいと言う選択肢がありうる。国際標準を必要とする国際企業は、標準に関する人材を必ずしも日本で調達する必要はない。また、未だ直接は国際標準を必要としない国内企業は、標準に関する人材を必要としていない。そのときには、以下に論じるような人材育成など不要となる。この問題点については、さらに若干の補足が必要であろう。例えば、独創的な技術の開発では、他人がその技術を受け入れるかどうかを気にする必要はない(もちろん、その技術の普及のためには、標準を含めて広く受け入れられるようにしなければならない)。一方、標準においては、大多数がその標準を受け入れて従わない限りは、標準を作成した効果が発揮されない。したがって、標準の策定は、独創的な技術開発とは異なる意味での困難を伴い、これはまた、標準における「偉人」が見つかりにくいと言うことにもつながるだろう。すなわち、標準の策定は、個人ではなく、チームで作業することが基本となる。ここで、標準を担う人材育成は、その役割がリーダーであるのか、それとも従うだけであるのか、によって育成コストが大きく変動する。これはとりもなおさず、組織が標準に対してどのような立場をとるかという選択の問題になる。
残念ながら、上に示した5つの問題に対して、世界共通の解答を見い出すことはできない。例えば、第3のキャリアパスの問題は、日本の組織運営や人事の問題に関わるため、簡単に解決できる性格のものではない。一方、欧米では専門職が様々な場で存在しているから、標準の専門家やコンサルタントが素直に受け入れられる素地があり、日本とは逆にOJTで現場から標準の専門家を育てるという発想も必要ない。また、人材育成は、畢竟「国家百年の大業」であるから、即効を求めることもできない。あらゆる事柄が大きく変動する現代において、100年後の「国家の柱石」を育てるにはどうすればよいかについて、意見の一致など求めるだけ無駄だろう。このような状況で取りうる1つの方策は、様々な人がそれぞれの考えで、次代を担う人材の開発に努めていくことしかないだろう。本稿では、このような問題点を前提として、そのうえでなお、標準に関する人材開発を具体的に支援するために出来うることを提案していきたい。次項では、教育カリキュラムについての検討を行うが、このような教育カリキュラムの整備は、これから標準に関する人材育成を積極的に進めていこうとする国々、例えば中国などでも検討されていることである。
5‐1.人材の層に応じた教育の必要性
標準に関わる人材教育の対象には、標準の作成に直接関わる人々だけでなく、一般大衆を含めた標準の使用者、標準の維持制定に関わる政策担当者あるいは学識経験者、さらには、経営に標準化活動を活用していく企業戦略担当者、といった様々な層の人々が含まれる。これらのあらゆる層の人々を対象にしようとすれば、教育の内容は、標準を規定する文書の作成・配布に関わる技術、会議運営を含めた標準の作成過程に関わる技術、各技術分野の研究開発、知的資産の取り扱い、法律や制度、さらには、企業などの経営における標準の取り組み方、といった多岐に渡る内容が必要となってしまう。実際には、人材の層や種類に応じた教育内容を検討していかねばならない。その種類分けには、大学での文系、理系という分類に応じた、経営層と技術層という分け方もあるが、ここでは、一般層、標準を実務とする層、標準を戦略的に考える層という分け方を用いることにする。このように分けて検討する理由には次の3つが挙げられる。まず第1に、欧米やアジア諸外国と比して特に日本に欠けているのは標準に関する戦略を担う人材だから、そういう戦略を担う人材の教育を他の層と区分けして考えるべきである。第2に、特に戦略的な部分では、従来の文系・理系という区分けは有効ではない。また、第3に、前述したように日本で従来行われていたOJTによる標準の実務者の養成が行き詰っているためである。
5‐2.一般教育
どのような分野においても、裾野としての一般教育は重要である。標準に関する一般教育の対象は、標準を利用する普通の人々だが、将来、標準に関わる青少年も含まれる。
諸外国で現在、標準に関する一般教育に積極的に取り組もうとしているのは、高校段階でのコースを2006年度から取り入れようとしている韓国だけである。しかし、今後は、他の多くの国でも取り組まれていくものと思われる。この一般教育においては、標準の常識的な知識だけでなく、標準が人類の知的資産であり、今後とも改訂や制定のための努力が必要なものだという基本的な理解が望ましい。
5‐3.標準に関する実務教育
標準に関する実務教育とは、具体的に標準を策定し、標準を規定する文書を作成し、標準を実施するなどの実務を行うための教育である。すでに述べたように、従来の標準に関する実務教育は、企業などでOJTとして行われてきた。しかし、現在、多くの企業内ではOJTを行うだけの余裕がなくなってきている。一方で、世界的な競争激化という環境変化を考えれば、効果的に標準実務を行うには、専門教育を受けた人材が必要になる。
標準に関する実務教育を受けた人の活躍する分野は、主として、研究開発や商品開発などであろう。実務の中には、標準に関する戦略との関わりもあり、実務と戦略との両方を兼ねる人もいるだろう。
実務の基本は、世界に通用する交渉力であり、それは、論理と手続きをどれだけ自分たちが守り、周りの人に守らせるかである。基礎的な部分としては、次のような項目が必要だろう。
- 論理的な思考と発表力
- 交渉における手続き的な処理
- 技術英語及び会議・交渉での英語力
- 自分の主張を関係者に納得させる技術
さらに、具体的な標準の策定に当たっては、次のような内容が必要となる。
- 標準団体に特有のマネジメントの理解
- 特定分野に関わる標準団体についての理解
- 競合企業、関連企業との標準作成における競合及び協力を進める力
- 日本では、JIS作成のための用語や手続きの理解、及びJIS作成作業のためのツール類の学習
5‐4.標準を戦略的に考える層への教育
ここでいう教育の対象となる層は、標準の実務経験者と他の分野の戦略担当経験者との2種類に大別できる(標準も戦略もまったく扱った経験のない層への教育は、難しいだろう)。標準を戦略的に考えるように教育された人々の活躍する場は、広くは、国家あるいは地域レベルでの標準のための戦略とその施策、業界や産業団体での標準のための戦略、企業経営での標準に関する戦略が必要な場から、もう少し実務に近い、知的財産戦略の枠内での標準に関する戦略、商品開発での標準に関する戦略が必要な場まで様々である。
目標吟味、実施施策、施策評価などと言った一般的な教育部分を除けば、標準のための戦略的な教育とは、標準に関する現状の把握及び将来動向の理解と、現状と動向を踏まえた上で、望ましい状況を作り出すという解決策を作り出すための材料や方法論、さらにはそれらの実技の習得ということになるだろう。ここで言うような教育においては、技術面の習得や適合性確認など一部を除いて、ほとんどの場合、対象の社会的側面が強いため、実験というものを行なうことができない。その代わりに、実際には、戦略の事例研究が学習上の大きな役割を果たすだろう。
また、理解すべき現状及び動向の対象としては、標準の作成団体、標準に関する国家戦略、ソフト・ロー、ハード・ローを含め法規範としての標準、世界市場での標準、知的財産戦略との関連、研究開発戦略との関連、商品開発戦略との関連、標準を策定するコストと効果、独自標準(内部標準)のリスクと効果などが挙げられる。
しかし、どのような対象を想定する場合においても、標準に関する戦略を日本の教育で行ううえで最も重要なことは、標準が他から与えられるものではなく、自分たちで作り出す、あるいは、変えていくものだという基本認識を教育することである。この認識が無ければ、どの標準を選ぶか、あるいは、いつ受容するかという判断だけで終わってしまう。
標準に対する戦略は、科学技術の出口での知的資産管理という側面から、特許戦略などと同じように、科学技術振興に必須の課題である。標準については、グローバリゼーションに伴う市場の変化だけでなく、法制度に関わる面でも、以前より格段に重要な位置を占めるようになっている。この問題意識を持って本稿では、国際標準を担う人材教育について、世界及び日本の現状を紹介し、標準に対する人材教育における問題点を指摘した。さらに、人材教育の内容を、一般層、標準の実務層、標準を戦略的に考える層という3つの層に分けて論じた。
標準そのものももちろんであるが、標準に関する人材育成も、戦略的に取り組む必要がある。歴史的に見たときに、日本のこれまでの取り組みは、個別の標準問題への対処に追われて、戦略的な取り組みという面ではアジア諸国にも遅れをとっていたのではなかろうか。アジアにおいては、韓国に代表されるような新興工業国が標準の戦略的価値に着目して、国家主導で人材育成に注力している。欧米諸国のなかで米国は、大学での標準に関する人材育成が遅れており、日本同様に企業内でのOJTによる人材育成にも陰りが見えている。しかし、米国ではその間隙をコンソーシアムの活発な活動やフォーラムなどNPOによる標準化活動と各種コンサルタントが埋めている。
日本においても、標準に関する人材育成は「知的財産推進計画2004」などで奨励され、図表3に示したように、大学での標準に関する授業が行われている。しかしながら、国として人材教育を推進する担当者が不明確であり、実態の把握も行われておらず、各大学での講義内容もまちまちである。つまり、日本では、標準に関する問題意識が具体的な人材育成プログラムの実施にはつながっていない。結果として、標準の戦略的活動に携わる専門家は相変わらず不足しており、実務担当者についても後継者が育たないという問題を抱えている。
このような問題を解決するには、現状の延長ではなく、具体的に目に見える形をもった「標準人材育成センター」のようなものの設立も有効だろう。特に、日本がこれから必要とする標準に関する戦略の人材育成に焦点を当てるには、「標準戦略センター」のような名称の方がふさわしいかもしれない。その役割は、例えば次のようなものである。
- 戦略人材育成の教育内容の開発
- どのような層の人に対してどのような教育が提供されているかという情報の集約
- 標準に関する各種事例のデータベース
- 標準を担う人材のキャリアパス開発
- これらの情報の積極的発信
上記の問題を解決して人材の積極的な活用を進めていくには、当然ながら、産業界を含めて関連する多くの部門との連携も必須であり、また、育成した人材を積極的な活用を推進する必要がある。
本稿をまとめるに当たり、以下の方々に、貴重な資料のご提供、ご示唆、ご意見をいただいた。深く感謝申し上げたい(以下、敬称略)。Donald Purcell(The Catholic University of America)、John Hill(Sun Microsystems, Inc.)、Jan van den Beld(ECMA International)、Alan Wilson(Standards Council of Canada)、Stephen Brown (Canadian Standards Association)、Tineke Egyedi(Delft University of Technology)、Willfried Hesser (Helmut-Schmidt-University, University of the Federal Armed Forces, Hamburg)、Henk de Vries(Erasmus University)、Danbee Kim(Korean Standards Association)、高柳誠一(前IEC会長、(株)東芝)、山田英夫(早稲田大学)、栗原史郎(一橋大学)、松本恒雄(一橋大学)、藤代尚武(経済産業省)。また、日本の大学における標準の教育に関わるアンケートでは、科学技術専門家ネットワークの多数の方の協力を得た。
1) Deming, W. Edwards, Out of Crisis,MIT Press,1986.
2) 土井教之編著、技術標準と競争―企業戦略と公共政策、日本経済評論社、2001年
3) TBT協定については、日本工業標準調査会の次のホームページ:http://www.jisc.go.jp/cooperation/wto-tbt-guide.htmlに詳しい解説が載っている。
4) 藤田昌宏・河原雄三、国際標準が日本を包囲する なぜ自らルールを作らないのか、日本経済新聞社、1998年
5) 山田肇、技術経営、NTT出版、2005年
6) De Vries, Henk J., Standardization education, in Manfred J. Holler(Ed.)(2005)EURAS Yearbook of Standardization, Vol. 5, pp. 71‐91, 2005.
7) 橋本毅彦、〈標準〉の哲学 スタンダード・テクノロジーの300年、講談社選書メチエ235、2002
8) Standards & Competitiveness:Coordinating for Results - Removing Standards-Related Trade Barriers Through Effective Collaboration, U. S. Department of Commerce, May 2004. pre-printはhttp://www.technology.gov/reports/NIST/2004/trade_barriers.pdfから入手できる。
9) 電子メール、Donald Purcell, 2005/5/14.
10) Report on A Survey of Schools of Engineering In the United States concerning Standards Education, The Center for Global Standard Analysis, The Catholic University of America, March 2004.
11) 電子メール、Donald Purcell, 2004/12/07.
12) Alan Wilson, personal communication via e-mail, 2005/4/14
13) http://europa.eu.int/comm/enterprise/standards_policy/academic_network/index.htm
15) 中日韓第2回東北亜標準協力セミナー(北京2003)協力覚書、日本規格協会、2003
16) 第3回東北亜標準協力セミナー(東京2004)協力覚書、日本規格協会、2004
17) 電子メール、Korean Standard Association 4/7/2005
19) http://www.asia-link-standardisation.de/
20) ISO Focus, April 2005:http://www.iso.org/iso/en/commcentre/isofocus/index.html
21) http://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/kettei/040527f.html
22) 松本恒雄、企業の経営システムと標準化 CSR(企業の社会的責任)が目指すもの、標準化と品質管理、56、11、11‐15, Nov. 2003
23) 谷島宣之、なぜ日本は「標準」でリーダーシップを発揮できないのか、IT Pro記者の眼、2005/03/04:http://itpro.nikkeibp.co.jp/free/ITPro/OPINION/20050303/156983/
24) Kernaghan Webb, Voluntary Codes:Private Governance, the Public Interest and Innovation, Carleton Research Unit for Innovation, Science and Environment, October, 2004
25) 栗原史郎+竹内修、21世紀標準学、日本規格協会、2001年
26) 緒形俊夫・玉生良孝、材料の国際標準化からみた国際戦略の現況と課題、科学技術動向No.28、特集2、2003年7月