ライフサイエンス・医療ユニット 島田 純子
米国国立衛生研究所(National Institutes of Health;NIH)1)は、「生物系の性質と生態(behavior)に関する基礎知識を追求し、その知識を健康の向上のために活用し、病気の診断・治療・予防のための新たな方法を開発すること」を使命とする、米国厚生省(Department of Health and Human Services)管轄下の1機関である。所長事務局(Office of the Director)と、27の研究所・センターから成っている。所長事務局は、NIHの方針決定、各プログラムの計画、管理、調整等を担っている。27の研究所とセンターには、国立ガン研究所(National Cancer Institute)、国立心臓・肺・血液研究所(National Heart, Lung, and Blood Institute)、国立ヒトゲノム研究所(National Human Genome Research Institute)などがある。各研究所での所内研究を行うとともに、全米の大学や研究所さらに海外へも研究グラントの助成等を行っている。
NIHは、「生物医学研究推進に向けた戦略」を「NIH Roadmap」と題してまとめ、2003年9月30日に発表した。このロードマップは、研究能力の向上、および、研究成果を基礎から臨床へ展開するスピードの向上を目指して、NIHが優先的に取り組むべき事項について明らかにしたものである。
本稿では、目的、作成プロセス、推進すべき課題等、NIHロードマップの全体像について概説する。
2004年度のNIH研究開発予算2)は、まだ議会で最終決定されていない。2003年12月8日に法案が下院を通過したが、上院を通過するのは2004年1月になるとのことである。この法案では、2004年度の研究開発予算として271億ドル(前年度比3.2%増)が計上されている。米国全体の研究開発予算は1,270億ドル、うち非国防予算は560億ドルであり、NIHが非国防予算の半分近くを占めている3)。
1998年度までは、7〜8%程度の伸び率で推移していたが、1999年度より大統領主導の「NIH予算倍増キャンペーン」が始まり、毎年14〜15%の伸び率を確保して急激に増加してきた(図表1)。しかし、2004年度予算では急速な予算の伸びが終息し、3.2%増という低い数字に抑えられている2,4)。
予算倍増キャンペーンの結果は、各研究所の予算増加として反映されてきた。ヒトゲノムプロジェクトが急速に進められ、2001年にゲノム配列の概要が解読されたことを受けて、1999〜2000年度は「ヒトゲノム研究」での増加率が大きい。また、2002年度以降は「アレルギーと感染症」の急速な伸びが目立っている5〜9)。
NIHが、「NIH Roadmap」と題した重点推進戦略をまとめた背景には、次の2点があげられる。
まず1つ目は、1999年度から始まった5カ年のNIHの予算倍増計画が2003年度で終了し、この間に得られたポテンシャルを引き続き維持していきたいという意向である。2つ目は、2002年5月にDr. Elias A. Zerhouniが新しい所長として就任したことである。
本章では、NIHのホームページ上で公表されている資料をもとに、NIHロードマップを概説する10,11)。
4‐1.目 的
NIHロードマップの目的は、「“人類の健康に貢献する”というNIHの使命を果たし続けていくために、医学研究に大きな進展を与え、かつ、NIH全体で優先的に取り組むべき事項を明確にすること」である。これまでNIHでは、27の研究所やセンターがそれぞれ、自ら研究を進めたりファンディングを行ったりして事業を進めてきているが、今回のロードマップでは、「NIH全体として横断的に取り組むべき課題」に焦点を当てている。
NIHロードマップが作成された理由の1つは、生物医学研究の性質が変わってきたことである。ヒトゲノムプロジェクトの進展によって、大量のゲノム配列情報が得られてきたことなどから、研究の進展が非常に早くなったという変化である。そして、生物の複雑さにはまだ解明すべき事が多く、さらに、科学的知見を国民の利益に変換させることがNIHのミッションであることから、生物医学研究の進め方や、研究成果を臨床へ展開していく方法を見直す必要が生じた。
4‐2.作成プロセス
現NIH所長Dr. Elias A. Zerhouniが就任した2002年5月よりロードマップ作成のための検討・協議を始めた。
まず始めに、大学、産業界、政府関係者など300人以上の生物医学の専門家を集めて、5回のミーティングを開催し、医学研究の進展に大きな影響を及ぼす今後10年間において取り組むべき課題について次の3つのポイントをもとに議論した。「緊急性を要する科学的課題・難問は何か?」、「その課題の進展を阻害する要因、およびそれを克服するために必要なものは何か?」、「NIH全体として取り組むべき課題か?」という3点である。このような検討を経て、3つの主要課題(テーマ)が挙げられた。
その後、NIHのスタッフと外部有識者をメンバーとし、NIHの各研究所長とセンター長を長としたワーキンググループを組織し、NIHの評議会や顧問委員会からの助言をもとに検討を重ねた。
最終的に、資金を投入されるべき重要な課題を以下の視点で選んだ。「今後10年の医学研究の内容やプロセスの改革するものであるか?」、「得られる成果がNIHの研究所やセンターで活用され、各組織の連携を強化するか?」、「特に一般の人々にとって利益をもたらす課題であるか?」、「NIHが取り組まなければならない課題であるか?」である。
そして、選ばれた課題について、2004年度へ向けての具体的活動計画や、短期、長期目標をさらに検討した。
4‐3.主要課題(テーマ)
(1)新たな知見を得るための方針(New Pathways to Discovery)
この主要課題では、「複雑な生物系の理解」に取り組む。ヒトゲノムプロジェクトでDNA塩基配列の解読が終了し、次のターゲットは、細胞や組織の構成要素を理解することである。そしてさらに、健康時や疾患時に、これらの構成要素がどのように相互作用し、機能を調節しているかを理解することが重要である。したがって、このテーマでは、「構造生物学」、「プロテオミクス(細胞内の全タンパク質を対象とし発現情報・相互作用情報を解析する研究)」、「メタボロミクス(細胞内の全代謝物を対象とする研究)」などを行う。
また、研究を推進させるための基盤となる「“toolbox”の開発」も行う。解読完了したヒトゲノム配列データや、分子生物学や細胞生物学研究から得られている新たな知見を活用できるようなデータベースの整備、さらに、解析技術の開発等の整備である。
ここでは、以下の5つの課題を実施する。
(1)生体内の経路・ネットワーク(Building Blocks, Pathways, and Networks)
- 生体内ネットワーク解析技術センターを設立する。そして、タンパク質間の相互作用を動的に解析するためのツール開発を行う。定量的な測定や、測定間隔の細かい測定を可能とする機器、手法、試薬等を開発する。
- メタボロミクスのための技術開発を進める。そこで得られた知見を細胞内の代謝経路やネットワークの解明に役立てる。
- プロテオミクス、メタボロミクスに関するワークショップを開催する。プロテオミクスやメタボロミクス研究におけるデータ標準化を図り、またプロテオミクス研究のための評価指標についての検討を行う。
(2)分子ライブラリー及び分子画像解析(Molecular Libraries and Molecular Imaging)
- 生理活性分子ライブラリーおよびスクリーニングセンターを設立し、新たなスクリーニング方法の開発、および、分子ライブラリーの提供を行う。
- 化合物の構造、特性、活性に関するデータベースを構築する。また、化学情報学(Cheminformatics)のツールの提供や技術開発のための競争的研究資金を創設する。
- 基礎研究のツールとなる化合物の開発や、医薬品となりうる化合物の開発において、ボトルネックを解決する技術を開発する。
- 特異性と感度の高いプローブを開発する。画像解析プローブの検出感度を1,000倍にし、基礎研究・臨床研究への応用を目指す。まずは、5年以内に10〜100倍の検出感度を達成する。
- 画像解析プローブの特異性、活性、活用方法等に関するデータベースを構築する。
- 画像解析プローブを提供するとともに、新規プローブの開発を行う中核施設を設立する。
(3)構造生物学(Structural Biology)
タンパク質の三次元構造解析に適するようサンプルを調整する手法を開発し、これを解析困難な膜タンパク質の解析に適用する。
(4)バイオインフォマティックス及びコンピュータ生物学(Bioinformatics and Computational Biology)
生物医学コンピュータセンターを設立する。さらに、研究者がどこからでもアクセスでき、情報を共有し解析できるような基盤となるシステムを整備する。
(5)ナノメディシン研究(Nanomedicine)
2005年度にナノメディシンセンターを設立する。このためのワークショップを2004年度に開催する。このセンターは、生命現象のナノレベルでの定量的測定法の開発、ナノレベルで操作できる工学技術の開発を行う。これらの成果を用いて、ドラッグデリバリーに用いるナノサイズのポンプや、病因を調べるセンサーの開発を目指していく。
(2)将来の研究体制(Research Team of the Future)
このテーマでは、「新たなファンディングシステムの導入」、「学際領域研究の推進」、「産学連携」という、研究体制に関する3つの課題を実施する。
(1)リスクの高い研究の推進(High-Risk Research)
新たなファンディングシステム(NIH Director’s Innovator Award)を導入し、「失敗の可能性は高いがブレークスルーとなりうる成果を生み出す可能性のある研究」に取り組む。これまでNIHのグラントで行われてきたピアレビュー方式では、詳細な研究計画の内容が評価の対象となるため、独創的な研究は提案されない傾向があった。新しいシステムは、研究者の創造性、独創性、自身のアイディアに対する探求心・洞察力、生物医学研究に対する先見性などを評価する。すなわち、研究提案よりも研究者の独創性や可能性に重点を置く。
(2)学際領域研究の推進(Interdisciplinary Research)
現在の生物医学研究は、規模が大きくなり複雑性も増しているため、研究者は自分が従来取り組んでいた専門分野を越えて、研究チームを形成する必要性が生じてきている。例えば、画像解析研究では、放射線学者、物理学者、細胞生物学者、コンピュータプログラマ等が一緒のチームで働くことが必要とされる。このような生物医学研究の性質の変化に対応するため「異分野融合」に取り組む。具体的には以下に取り組む。
- 新しいアプローチを用いて重要な課題に取り組む学際領域の研究課題に助成を行う。2004年度中に15のグラントを開始する。
- 学際領域における研究者の研修を行う。2004年度中にグラントを開始する。
- 学際領域研究での技術や方法論の開発を行う。
- 学際領域の推進を妨げる制度的な障害を取り除く。
- 学際領域に取り組む研究者への研修や、学際領域研究チームを集めるプログラムのモデルをNIH内部につくり、その実現性や利点を検証する。
- ライフサイエンスと物理学の融合についての会議を2004年度に全米科学財団(National Science Foundation;NSF)と合同で開催する。「ライフサインエスの進展のために物理学は何ができるか」ということについて議論する。
(3)産学連携(Public-Private Partnerships)
「公的機関と私的機関との協力関係の構築」に取り組み、基礎研究から臨床研究へ向けた動きを加速させることを目指す。具体的には以下に取り組む。
- 産学連携研究にNIHスタッフを参加させ、産学連携調整に関する内部委員会を設ける。
- 連携機関を探すための機会(Partnership Meetings)をつくる。
(3)臨床研究体制の再構築(Re-engineering the Clinical Research Enterprise)
このテーマでは、「臨床研究体制の再構築」に取り組む。
基礎研究の成果は迅速に技術移転されて医薬・治療・予防といった臨床において活用されるべきであり、これはまさにNIHの使命である。いままで、NIHはその役割を果たしてきたが、今後も国民の健康の向上に引き続き貢献していかなければならない。
ところが、臨床研究は、かつては1つのアカデミックな機関で管理することができたが、最近では患者コミュニティー、臨床医科学者、アカデミックな研究者が連携して行う必要が出てきたために、より困難になってきている。したがって、基礎研究成果からの技術移転の効率を上げ、臨床研究を拡充していくために、臨床研究体制を見直すことが求められている。具体的には以下に取り組む。
- 臨床研究プロセスを調整し、標準化して合理化する。
- 臨床研究ネットワークの構築を促進することによって、臨床研究体制の効率性、有効性の向上を図る。
- 臨床研究者のトレーニングを行う。
- 標準となるデータシステム(National Electronic Trials and Research Network)を構築し、データやリソースを共有する。
- 基礎研究成果を臨床試験へ展開する研究(トランスレーショナルリサーチ)を促進する。
- 地域においてトランスレーショナルリサーチセンターを設立し、基礎研究者と臨床研究者の関係を緊密にする。センターには必要不可欠なインフラを整備する。
- 現在定量的に測定することができない、痛み、疲労等を測定する技術を開発し、疾病の重症度の測定に役立てる。
NIHロードマップの課題を推進するための予算のために、共通資金が設けられるとのことである。2004年度は1.3億ドルで、今後5年間では21億ドルの予定である12)。NIHでは、従来は、各研究所・センターごとに予算が管理されており、共通資金を設けるというのは新しい方法である。予算や計画の管理は集中して行い、各課題の実施は、担当するグループがNIH全体を代表して行うということである。
現在、NIHのホームページ上で、ロードマップの実施課題に関する競争的研究資金の公募が始まっている。NIHは、各課題のほとんどを2004年度(2003年10月〜2004年9月)中に開始するとしている。2004年度の開始と同時に、関連する競争的研究資金の公募がいくつか始まった。公募の数は徐々に増えてきており、NIHロードマップの実施へ向けて動き出している様子が見受けられる。
2004年度の始まりにあたってロードマップが発表されたのは、新しい研究所長の就任と、2003年度で5年間にわたる予算倍増キャンペーンが終了したことにより、新しい方針を示す必要が生じたためであろう。
この「NIHロードマップ」は、ロードマップと言うにふさわしい明確なマイルストーンが示されているというよりは、今後の方向性の提示という性格が強い。基礎研究ではポストゲノム研究とそのためのツール開発、学際領域の研究が重要課題とされているが、NIHの使命を意識して、何よりも臨床研究の推進を重要視していると言える。
2005年度の大統領予算案が2004年2月頃に発表されるであろうが、どのような項目が重点化されるか、そしてさらに、その後の議会でどのように修正され合意されていくかなどを今後も注目していきたい。
1) National Institute of Health(NIH),http://www.nih.gov/
2) AAAS,“NIH Wins 3 Percent Increase in Final FY 2004”,Dec. 9,2003
3) AAAS,“FY 2004 Federal R&D Climbs to Record High of $127 Billion”, Dec. 8, 2003
4) AAAS,“Historical Data on Federal R&D, FY1976-2004”,March 7, 2003
5) AAAS,“FY 2003 Omnibus Bill Completes NIH Doubling Plan ; Large Increases for Bioterrorism R&D and Facilities”, Feb. 25, 2003
6) AAAS,“NIH Budget Climbs $3.2 Billion or 15.7 Percent”, Jan. 4, 2002
7) AAAS,“Congress and President Clinton Agree on 14 Percent Boost for NIH”, Jan. 4, 2001
8) AAAS,“Congress Agree on $2.2 Billion Boost for NIH, But Withholds $3 Billion Until Next September”, Nov. 24, 1999
9) AAAS,“NIH Wins $2 Billion Increase in FY 1999”,Nov. 13, 1998
10) NIH Roadmap, http://nihroadmap.nih.gov/
11) Elias Zerhouni,The NIH Roadmap. Science. 302(5642):63‐72
12) Chemical & Engineering News. 81(40): 10