分子植物科学は、植物の遺伝子の機能に着目して、植物の形態や代謝を制御する仕組みを解明したり、植物の進化の過程を解明することを主な目的とした科学であり、将来の食料・環境・エネルギー問題の解決に必要な革新的な植物の開発などにつながるものとして、世界的に大きな期待が寄せられている。また、本研究は、総合科学技術会議が2001年9月に決定した分野別推進戦略においても、重点領域の一つに挙げられている。
シロイヌナズナやイネなどのいわゆるモデル植物については、古くからの遺伝学・生理学上の研究成果の蓄積に加え、ゲノムサイズが小さく、交配や遺伝子導入等の操作も容易で遺伝子の機能解明に供すべき生物資源が得やすいことなどから、1980年代中頃より遺伝子の機能解析が世界的に進展してきた。
2000年12月には、高等植物で初めてシロイヌナズナゲノムの全塩基配列の解読が日米欧の共同プロジェクトにより達成された。穀物のイネについても、2002年4月にスイスのシンジェンタ社及び中国の北京ゲノム研究所がゲノム全塩基配列解読をそれぞれ達成し、我が国を中心とする国際コンソーシアムにおいても2002年中により高精度な配列解読を完了する見込みである。イネとシロイヌナズナのゲノム全塩基配列の決定等に伴い、植物の遺伝子の機能解明に必要な研究基盤が格段に充実してきている。
一方で、ゲノムの全塩基配列情報や生物資源などの研究基盤の充実に伴い、遺伝子機能解明に関する国際的な競争は一段と厳しくなっていることから、我が国においても、食料・環境・エネルギー問題の解決に寄与する研究成果をいち早く得ることが求められている。
本稿では、近年における国内外の分子植物科学研究の動向を概観し、我が国における本研究領域の推進方策について検討する。
遺伝子の解析が進んでいる植物種
分子植物科学において、どのような植物種が主として研究対象とされてきているかを概観するため、DDBJ/EMBL/GenBank 国際塩基配列データベースに登録された植物種ごとの塩基配列データの量を図表1に示した。

本データベースに登録された塩基配列データについて、植物種ごとの登録塩基数を見た場合、イネ・トウモロコシ・コムギなど農業上の有用植物が多いイネ科作物のモデルとして、イネが第1位、これに次いで、高等植物のモデルとして1980年代中頃よりゲノム解析が世界的に進められてきたシロイヌナズナが第2位となっている。この2種のモデル植物は、他の植物と比較して登録塩基配列が圧倒的に多く、現在もなお、遺伝子の機能解明のための中心的な素材として、国際的に研究されている。
また、第3位にはシロイヌナズナと同じアブラナ科に属するBrassica oleracea(キャベツ、ブロッコリー)が入っており、シロイヌナズナとの遺伝子構造の相同性を利用して、遺伝子の機能解析が進展してきている。
第4位にはタンパク源や油糧作物として世界各国で栽培され、窒素固定などの機能が特徴的なダイズが入っているが、第7位、第15位には、マメ科のモデル植物として、タルウマゴヤシ、ミヤコグサがそれぞれ入っている。
シロイヌナズナ
シロイヌナズナ研究についての、主な歴史的な経緯は、図表2のとおりである。

シロイヌナズナは、北半球のほぼ全域に分布する野草である。1965年頃にドイツで遺伝学の研究素材として、シロイヌナズナを用いた基本的な研究が行われ始めた。シロイヌナズナは、ゲノムサイズが約125Mbと小さいながらも、成長、開花、環境応答、耐病虫性など高等植物が持つ基本的な遺伝子の機能を備えていること、世代時間が約2ヶ月と短いこと、遺伝子操作が比較的容易であることなどから、分子植物科学の主要な研究素材として国際的に普及した。
1990年に日米欧の研究者によって国際的な共同研究組織が発足した。1995年にはゲノム全塩基配列決定プロジェクトへと発展し、2000年12月にはゲノム全塩基配列の決定に至っている。ゲノム全塩基配列決定のための国際プロジェクトには、日本からは、千葉県からの研究資金の提供によって運営されるかずさDNA研究所が単独で参加し、参加6グループ中最大の全ゲノムの約30%を担当し、世界的に高い評価を受けた。
イネ
イネについては、イネ自体が農業上の有用植物であることに加え、トウモロコシ、コムギなどのイネ科作物共通の遺伝子の機能を解明する上でのモデルとなることから、我が国が1991年より世界に先駆けてイネゲノム解析プロジェクトに着手し、高密度遺伝子連鎖地図(3)の作成、大量のcDNA(1)解析、染色体地図の作成を行い、イネゲノム研究の基礎を築いた。
1998年より第2期イネゲノム解析プロジェクトとして、我が国をリーディングカントリーとする国際イネゲノム配列プロジェクト(IRGSP:International Rice Genome Sequencing Project)が発足して、ゲノム全塩基配列決定に着手した。2002年5月現在で317Mb、イネゲノム全体(430Mb)の74%まで解読が進んでおり、解読した塩基配列の約6割は我が国の農業生物資源研究所及び農林水産先端技術産業振興センターが共同で解析したものである。2002年内には重要部分の高精度解読を完了する予定となっている。
一方で、イネゲノムについては、2002年4月にスイスのシンジェンタ社(農薬分野で世界第1位、高付加価値種子分野で世界第3位の多国籍企業)と中国の北京ゲノム研究所が、解読精度は劣るものの、それぞれ全塩基配列解読を達成した(Science、2002年4月5日号)。
国内外のイネを扱う研究者からは、以前より「IRGSPは精度が低くともゲノム全体をカバーする塩基配列情報を、誰もが利用できるよういち早く公開すべき」との意見も聞かれていた。これに対してIRGSPは、99.99%の精度でDNA鎖の塩基配列を完全に解読した後にデータを公開する進め方を2001年に見直し、少々解読できていない隙間が残された状態から早期にデータを公開するという対応を図った。
なお、最終的に99.99%の精度(1万塩基対の中で誤りを1塩基以下に押さえた正確さ)でイネゲノム全塩基配列の解読が必要ということついては、国際的にも合意がある。例えば、先に全塩基配列解読を達成したシンジェンタ社は、IRGSPによる高精度解析達成の一助となるよう、シンジェンタ社が解読したイネゲノム概要塩基配列データをIRGSPに対して無償で提供することに合意している。また、食料・環境問題の解決のため植物科学研究に対して資金のサポートを続けてきたロックフェラー財団の会長ゴードン・コンウェイ博士も、「イネゲノムの高精度な配列解読における日本のリーダーシップと努力により、発展途上の国々全域の食料安定供給性を高めることができる」と日本のイニシアチブを賞賛し、「プロジェクトが完結されることを強く希望している」とコメントしていることが、同財団より5月6日にプレスリリースされている。
マメ科植物
世界の食料生産においては、デンプン源としてイネ、コムギ、トウモロコシなどの単子葉植物が栽培され、タンパク源としてダイズなどのマメ科植物が栽培されている。マメ科植物は種子タンパクの蓄積や、根粒菌の共生により窒素固定能を持つという特徴を有することから、分子植物科学の重要な研究対象である。
世界的には、アルファルファの近縁種であるタルウマゴヤシと、我が国の自生種であるミヤコグサの2つのモデル植物を中心に、遺伝子の機能解明が進行している。
タルウマゴヤシについては、米国及びフランスが研究資金を充実させており、遺伝地図の作成、タグライン(2)の作出、根粒菌ゲノム解析等においてミヤコグサより進んでおり、欧米の研究者グループがイニシアチブを執っている。
我が国では、ミヤコグサが我が国の自生種であり、遺伝的に多様な系統が各種確保できていることから、かずさDNA研究所が中心となって、ミヤコグサの発現配列タグ(EST)(4)の解析などを進めている。なお、同研究所は2000年12月にミヤコグサに共生して窒素固定に寄与する根粒菌Mesorhizobium lotiのゲノムの全塩基配列(ゲノムサイズ 7.6Mb)を決定している。
用語説明
(1)cDNA
タンパク質のアミノ酸配列情報を担うメッセンジャーRNAのDNAコピー。
(2)タグライン
配列が既知のDNA断片を、ゲノムに無作為に挿入することによって作成した変異体をタグラインという。目的の表現型を示す変異体から、挿入した既知配列を指標(タグ)として、隣接配列を分析することで、変異の原因遺伝子を同定できる。
(3)高密度遺伝子連鎖地図
遺伝子間の距離を自然組換えの頻度から算出し、ゲノム上に遺伝子の位置を高密度に示したもの。
(4)発現配列タグ(EST)
cDNAの部分塩基配列。
遺伝子の機能予測
ゲノム全塩基配列が解読されたシロイヌナズナやイネでは、これまでに機能が解明された既知の遺伝子の塩基配列との相同性等をもとに、ゲノム全塩基配列情報から、ゲノムに含まれる遺伝子の総数、遺伝子の機能を予測することが可能となっている(図表3)。

既知の遺伝子の塩基配列との相同性などから、シロイヌナズナゲノムには約25,500個の遺伝子が存在することが予測されている。代謝に関連する遺伝子、遺伝子の発現を調節する遺伝子が占める割合が多いことが明らかとなっているが、全塩基配列の解読時点では、遺伝子の機能が推定できないものが30%程度あった。
形態の形成に関与する遺伝子
シロイヌナズナゲノムの全塩基配列が明らかとなり、遺伝子の機能解析が進展してきた中で、植物の遺伝子の機能のうち、特に植物の形態の形成に関与する遺伝子(形を決める遺伝子)については、
1)少数の遺伝子の機能の変化が大きな形態変化をもたらす。
2)茎の先端部の分裂組織で発現する遺伝子の機能の変化が、植物体の大きな形態変化をもたらす。
3)細胞間の位置情報伝達システムに関わる遺伝子が、細胞の増殖や分化に重要な役割を果たす。
4)複数の遺伝子が同一の機能を持つことが多い。
などの特徴を持つことが明らかとなってきている。植物の形態の形成に関与する遺伝子は、農作物等の商用作物の収量・品質等の形質に直接的に関与するものも多いことから、基礎研究の対象として重要なものである。
葉の表と裏を決める遺伝子
植物の茎の先端部では、細胞分裂が盛んに行われ、植物の器官である葉や花のもととなる組織(原基)が作られている。葉原基の裏表は分裂組織との相対的な位置関係で決定されることが予想され、最終的に形成された葉の表と裏では構造も異なることから、表裏それぞれの部位において相異なる遺伝子が発現していることが予想される。
京都大学大学院理学研究科の岡田清孝教授のグループは、シロイヌナズナの葉の表と裏がうまく形成されない突然変異体を利用して、その原因に関わる遺伝子としてFIL遺伝子を単離した(図表4)。FIL遺伝子が発現した部位は、葉の裏側へと分化することを明らかにし、さらに、FIL遺伝子の詳細な構造解析によって、FIL遺伝子の上流1745塩基対から1795塩基対の間の50塩基対の中に、裏側で発現するように制御する領域があることを明らかにした。

現在では、FIL遺伝子の発現を調節する遺伝子(上記50塩基対の領域に結合するタンパク質をコードすると推測される)を同定する研究が進められているところである。即ち、分裂組織の中央から葉原基の方向に位置情報となるシグナルが出され、葉原基の裏表では分裂組織との距離の違いからシグナルの強度が異なり、FIL遺伝子の発現が調節されるものと推測し、位置情報となるシグナルの本体が何であるかを解明しているところである。
こうした葉の表裏の決定に関わるシグナル伝達のほかにも、花芽の分化や受精の機構など、植物の形態形成に関わる重要な段階において、さまざまなシグナル伝達が関与していることが明らかとなってきている。栽培作物を含めたほとんど全ての植物が、シグナル伝達に関する共通したメカニズムを持つ可能性が高いと考えられていることから、シロイヌナズナ等のモデル植物を用いてそのメカニズムを明らかにすることは、分子植物科学研究として重要と考えられる。
イネの草丈に関与する遺伝子
フィリピンの国際イネ研究所(IRRI)が1960年代に育種により選抜した多収穫品種「IR8」は、草丈が低く倒れにくい性質を持ち、アジア諸国での食料増産に大きく寄与した。このことは「緑の革命」として、知られている。
名古屋大学生物分子応答研究センターの松岡信教授の研究グループは、イネの草丈に関与する遺伝子として、「緑の革命」に深く関わったsd1遺伝子の単離に成功した(2002年4月18日Nature)。
IR8では、植物生長ホルモンであるジベレリンの生合成に関係する酵素の1つGA20ox-2酵素をコードする遺伝子sd1が壊れており、この品種ではジベレリンの合成量が減少することにより草丈が低くなるというものである(図表5)。

単離されたsd1遺伝子という一つの遺伝子の変異によりイネの理想的な草丈をもたらすことが可能であることから、今後他の品種のイネにおいても、この遺伝子を用いた分子育種的な手法による品種改良が可能となることが予想される。
イネの開花期の制御に関わる遺伝子
開花期などの量的な形質の多くについては、複数の遺伝子により制御されるため解析が困難で、これまで遺伝研究の対象となりにくかった。近年、イネゲノム研究により得られたDNAマーカー(5)、塩基配列情報等の研究成果を活用して、複数の遺伝子座(Quantitative trait loci(QTL))により決定される形質の分子遺伝学的解析が可能となってきている。
(独)農業生物資源研究所の矢野昌裕応用遺伝研究チーム長らの研究グループは、イネの品種ニホンバレ及びKasalathの特定の染色体を置換するなどの交雑方法により、遺伝解析実験用の雑種集団を人為的に作出し、これに対しDNAマーカーを指標とした遺伝解析を行うという手法により、イネの開花期に関わるQTLの染色体上の領域を15カ所発見した(図表6)。

そのうちの3領域からマップベースクローニング法(6)により開花期に関わる遺伝子(Hd1、Hd3a、Hd6)を単離し、遺伝子の構造を解析した。その結果、遺伝子Hd1及びHd3aはシロイヌナズナの開花関連遺伝子と類似する構造を持っており、また遺伝子Hd6はショウジョウバエやシロイヌナズナにおいて生物時計に関連する遺伝子に類似する構造を持つことが明らかとなった。これらの結果から、日長に対する開花反応が逆である短日植物(日長が短くなると開花する植物)のイネと、長日植物のシロイヌナズナで、開花反応に関与する類似した構造の遺伝子を持つという興味深い知見が得られた(2000年12月Plant Cell、2001年7月3日PNAS)。
なお、矢野チーム長らが確立したDNAマーカーを指標としたイネのQTLの解析手法は、開花期以外の形質の解析にも応用できることから、これまで解析が困難であった有用形質の遺伝的調節機構の解明に大きく寄与するものと期待されている。
環境ストレス耐性に関わる遺伝子
温度(高温、低温)、乾燥、塩ストレスなどの環境ストレスに対する植物の耐性を向上させる技術は、食料・環境問題の解決に寄与する技術として待望されてきた。しかしながら、耐性機構が複雑であることから、近年になるまで研究開発は進展しなかった。
近年、シロイヌナズナやタバコなどから、乾燥や塩ストレスによって誘導され、ストレス耐性の獲得に関わるタンパク質を合成する遺伝子群が単離され、併せて、これらの遺伝子の発現を調節する転写因子(7)が数多く単離されてきた。
(独)国際農林水産業研究センターの篠崎和子主任研究官らの研究グループは、シロイヌナズナの耐性機構に関与する多数の遺伝子の解析から、乾燥、塩分、低温に応答する遺伝子発現を制御する転写因子の遺伝子(DREB1A)を単離した。さらに、ストレス付与時に遺伝子を発現させるrd29AプロモーターにDREB1A遺伝子を結合してシロイヌナズナに導入したところ、高レベルの乾燥・塩・凍結耐性を示した(図表7)。

DREB1A遺伝子が転写因子として働く環境応答機構は、植物が共通に持っている耐性機構と考えられることから、DREB1A遺伝子とrd29Aプロモーターの組み合わせは、イネ、小麦、トウモロコシ等の環境ストレス耐性作物の他、環境ストレスに強い樹木などの開発への応用も期待されている。
用語説明
(5)DNAマーカー
ゲノム上の位置が明らかになっている特徴的な塩基配列。
(6)マップベースクローニング
単離をしようとする遺伝子の近傍に位置するDNAマーカーを利用して、遺伝子が存在するゲノム領域を絞り込む方法。
(7)転写因子
遺伝子の発現を制御する因子。
2000年にシロイヌナズナゲノムの全塩基配列決定が達成されたのと同時期に、米国NSFの支援のもとで、日米欧の分子植物科学研究者が共同で「2010年プロジェクト」を策定・公表している(図表8)。

2010年プロジェクトの中では、日米欧を中心とする研究者が、個々の遺伝子の機能の詳細な解析を行っているところである。2010年までの10年間で、シロイヌナズナを中心に、遺伝子・タンパク・代謝について網羅的に解析をすすめることとしており、モデル植物を用いた高等植物の分子レベルでの理解が一層深まることが見込まれる。
分子植物科学と 大規模解析プロジェクト
分子植物科学は、シロイヌナズナを用いた研究に代表されるように、各種の実験手法が確立した植物において、特に大規模で網羅的な解析プロジェクトが先行し、個々の遺伝子の機能の詳細な解析が続くかたちで、研究が進行していくという特徴を持っている。
また、大規模で網羅的な解析プロジェクトでは、ゲノム全塩基配列の決定と並行して、T-DNA(8)やトランスポゾン(9)による各種遺伝子変異体の作成など、遺伝子の機能解明に不可欠な研究素材(バイオリソース)の網羅的整備が行われる。この際、少数の大規模な研究機関(若しくは研究グループ)が国際分業のもとに、ゲノム全塩基配列の決定から各種研究素材の整備までを行うケースが多い状況である。特にイネ科、マメ科のモデル植物などは、遺伝子の機能解明に係る研究成果が、農作物の品種開発等の応用研究に直接的に結びつくことが多いため、研究情報の公開と研究素材の外部への提供を巡って、各研究機関の対応が慎重にならざるを得ない状況になっている。
一方で、個々の遺伝子の詳細な機能については、大学等の個々の研究室、研究者レベルで行う塩基配列情報や各種遺伝資源を利用した研究によっても、数多く解明されている。前々章で解説してきたとおり、植物の遺伝子の機能解明においては、研究対象となる機能の遺伝子に変異を持つ個体のスクリーニングを起点に研究が進行していくものも多いことから、大規模解析プロジェクトにおいては、国内の個々の研究者が自らの研究を進行させるために必要なデータや遺伝資源に、円滑にアクセスできるよう管理・運営することが重要である(図表9)。

さらに、網羅的解析においては、塩基配列情報のみならず、マイクロアレイ(10)を利用して得られた遺伝子発現プロファイル(11)などに代表されるように、データ形式が多様化している。遺伝子の詳細な機能解析を行う大学等の個々の研究室・研究者は、これらの多様なデータや遺伝資源のうちから、目的とする遺伝子機能に関連したものに縦断的にアプローチする必要性があることから、データの公開等に関して、大学等の個々の研究室など外部のグループからも意見を聞くとともに、バイオインフォマティクスの専門家が中心となって、利用しやすい連関したデータベースの構築を目指す必要がある。
用語説明
(8)T-DNA
植物に感染する微生物のアグロバクテリウムは、Tiプラスミドという環状DNAを持っており、T-DNAはTiプラスミド上に存在するDNAの領域である。アグロバクテリウムが植物に感染すると、T-DNAが植物の染色体に挿入されるため、植物への遺伝子導入に利用される。
(9)トランスポゾン
ゲノムDNA上のある位置から、別のある位置へ動くことができる可動因子。
(10)マイクロアレイ
スライドガラス上に多種のcDNA等を高密度に固定した装置。数多くの遺伝子の発現を一度に検出することができる。
ヒトゲノムにおけるポストゲノム研究との違い
前々章で解説した植物の形態形成の研究成果からも分かるとおり、分子植物科学において行われる遺伝子の機能解明は、突然変異体等の研究素材を網羅的に蓄積し、単離を目的とする遺伝子に変異を有していそうな個体(突然変異体)を植物の表現型などをもとにスクリーニングし、その個体のゲノムから特徴的な遺伝子を同定し、その遺伝子の機能を推定するための対照実験(遺伝子導入等による機能修復など)等を行うというアプローチによって達成されることが、現在もなお主な流れとなっている(図表10)。

この際、植物の場合には、突然変異体を人為的に作成しようとする場合に、個々の細胞が全能性を持つため、遺伝子破壊などの遺伝子操作から個体の作成までが、動物と比較して格段に容易である。また、交配によって多数の次世代が得られることから、染色体の自然組換えを利用して、大規模集団からDNAマーカーを利用して、候補遺伝子の絞り込みを行うマップベースクローニングのような方法が現時点でも有効である。
なお、ヒトゲノム研究におけるポストゲノム研究では、ヒトに対して直接遺伝子操作するような研究は不可能であるほか、例えば遺伝子の機能解析を目的としてノックアウトマウスを作成しようとする場合に、現在でも、ノックアウトマウスはごく一般的な技術レベルの研究室では作成不可能であり、植物の場合と違って個体レベルで遺伝子に変異を持つものを網羅的に作成することが非常に困難である。したがって、タンパク質の立体構造の解析からタンパク質の機能を推定し、これにより生物の仕組みを理解するような研究の必要性が、植物と比較して高くなるものと考えられる。
全塩基配列が明らかとなった植物種が複数でてきたとはいえ、遺伝子の詳細な機能が明らかとなったものはまだ僅かであることから、植物のポストゲノム研究においては、さまざまな突然変異体を起点とした遺伝子の機能解明を今後も進めていくことになると想定される。この際、ヒトゲノムにおけるポストゲノム研究とは、遺伝子の機能解明に向けてとりうる研究アプローチに相違があることから、植物独自の研究方法の有利な点に着目して、研究推進することが重要である。
なお、図表10で示した分子植物科学研究の流れのうち、「形態、代謝、刺激応答などの形質を指標とした突然変異体の選択」や、「遺伝子導入植物の作製〜遺伝子機能の検証」の行程には、農作物の育種等を行ってきている農業試験場などの研究機関が持つ植物の形態・生理に関する知見及び研究人材が、極めて重要な役割を果たすものと期待される。
用語説明
(11)遺伝子発現プロファイル
個々の遺伝子について、生物体のどの場所でどの時期に発現するかを、網羅的に調べたもの。
(12)プロテオーム
細胞や組織で発現するタンパク質の総体。
分子植物科学において将来達成すべき目標と現在の研究水準
分子植物科学は、人口の増加、農耕地の減少・砂漠化などに伴う食料問題、また、地球温暖化、各種化学物質による環境汚染などの環境問題の解決に寄与する科学として大いに期待されており、分子植物科学の研究成果を応用して開発すべき植物としては、図表11に示した植物が現在考案されている。

非営利国際団体のISAAA(Inter-national Service for the Acquisition of Agri-biotech Applications)の調べでは、2001年の世界の遺伝子組換え植物の栽培面積は、初めて5千万ヘクタールを超え、前年比19%増の5,260万ヘクタール(世界の全耕地面積約13.8億ヘクタールの3.8%)に達した。しかしながら、その面積の77%が除草剤耐性のダイズ、トウモロコシ、ワタであり、15%がBt植物(殺虫性タンパクを導入した耐虫性植物)であるように、実際に普及した植物の種類は現時点ではごく限られたものとなっている。これらの除草剤耐性植物、Bt植物は、植物のゲノム上に存在する遺伝子の機能を利用したものではなく、いずれも微生物から単離した単一の遺伝子を植物に導入して、新たな機能を付与した植物である。
前々章で紹介した乾燥ストレス耐性の付与に関する研究成果のように、植物の遺伝子の機能を解明して、植物に目的とする機能を付与する技術は、シロイヌナズナに関するゲノム研究が進展した近年になって初めて開発が進んできた技術であり、今後フィールドテストを経て種々の改良を加えながら、技術の有効性が評価できる段階にようやくたどり着いたところである。同様に、食料・環境問題のような地球規模の課題解決に寄与する植物(例えば、高生産性植物、耐塩性植物、耐乾燥性植物、重金属吸収植物、NOx・SOx吸収・分解植物)の多くについては、植物の代謝やシグナル伝達などの基本的な機能に関わる多数の遺伝子を詳細に解析し、その機能を十分に活用して、目的とする特性を付与する必要があるものが多いと考えられている。
したがって、分子植物科学の将来において、食料・環境問題のような地球規模での課題解決に寄与するような高い目標を達成するためには、イネやシロイヌナズナなどのモデル植物を活用し、目標とする植物の特性に関与する遺伝子の機能解明を中心に、高等植物の分子レベルでの理解を一層深めていくことが不可欠といえる。
2000年12月、日米英の国際コンソーシアムが、高等植物としては初めて、シロイヌナズナゲノムの全塩基配列解読を達成したことをNatureに報告した。また、2002年4月にはシンジェンタ社及び中国の北京ゲノム研究所が、それぞれイネゲノムの全塩基配列解読を達成したことをScienceに報告した。遺伝子の機能解明に必要な研究基盤が整ってきたことに伴い、商用作物を含めた植物の遺伝子の機能解明が今後大幅に効率化し、有用遺伝子の機能解明に係る国際競争が一層厳しくなってくることが推測できる。
また、分子植物科学の成果を食料問題・環境問題など地球規模での課題解決に結びつけていくため、遺伝子組換え植物の安全性・信頼性を高めつつ、人類の生存に有効な植物を開発していくことも求められるところである。 したがって、植物の有する研究上の特性(遺伝子組換えなどにより、遺伝子の機能解析に必要な研究素材を容易に作成できること)を十分に認識し、国内の農業・植物研究に関わる全ての研究勢力を有効に活用し、分子植物科学の研究成果をいち早く人類の共通財産としていくことが重要である。
謝辞
本稿は、科学技術政策研究所において、2002年4月23日に行われた京都大学大学院理学研究科岡田清孝教授による講演会「分子植物科学の現状と将来」の講演内容をもとに、我々の調査を加えてまとめたものである。
本稿をまとめるにあたって、岡田教授には、御指導をいただくとともに、関連資料を快く御提供いただきました。文末にはなりますが、ここに深甚な感謝の意を表します。