近年、核酸(DNA)、タンパク質に続く第三の鎖状生命分子として、糖鎖分子が注目されてきている。
核酸やタンパク質は全ての生物種に共通する部分が多いことから、これらの解析は全生物種に対して縦断的な研究である。一方、糖鎖は、生物種による差違があるだけでなく、同一種においても器官、組織、細胞種等によって異なることから、糖鎖研究は生物多様性の基礎解明を行う横断的な研究であると言える。
従って糖鎖研究は、核酸やタンパク質を主な対象とするポストゲノム研究と平行して進めていくべき重要な課題の一つである。
本稿では、糖鎖の機能・構造、研究の現状および今後の糖鎖研究の展望について述べる。
ヒトの体は、約60兆個の細胞から成っている一大細胞社会であり、全ての細胞表面は糖鎖分子によって覆われている(図表1)。例えば、ABO式血液型は細胞表面の糖鎖の違いにより決定されている。
糖鎖は、細胞間の認識や相互作用に関わる働きをもち、細胞社会を成り立たせる要となっている。細胞社会の乱れは、癌、慢性疾患、感染症、免疫・脳・発生などの異常、老化などにつながる。
例えば、細胞が癌化すると糖鎖の構造変化が起こることが分かっている。また、コレラ菌やインフルエンザウイルスなどは、ある特定の糖鎖を認識し結合することにより、細胞に侵入し感染することがなど知られている。
糖鎖機能の解明は、新しい原理に基づく医薬品や食品の開発などをもたらし、病気の予防・治療に貢献するなど、幅広い応用が期待されている。

(理化学研究所2001年11月20日プレスリリースより引用)
生体は、水以外に、主に核酸、タンパク質、糖質、脂質から構成されている。核酸、タンパク質、糖質の基本的な構造様式を図表2に示した。
| 物質名 | 鎖状分子名 | 構造(鎖)の基本単位 | 基本単位間の結合名 |
| 核酸 | ポリヌクレオチド鎖 | ヌクレオチド | ホスホジエステル結合 |
| タンパク質 | ポリペプチド鎖 | アミノ酸 | ペプチド結合 |
| 糖質 | 糖鎖(オリゴ糖鎖、多糖鎖) | 単糖 | グリコシド結合 |
(航空・電子等技術審議会「糖鎖工学の基盤形成に関する総合的な研究開発の推進方策について」
(諮問第14号)に対する答申(1990年)をもとに科学技術動向研究センター作成)
糖鎖は、タンパク質や脂質と共有結合して存在する。タンパク質のうち、約60%は糖鎖とタンパク質が共有結合した糖タンパク質である。
これらの糖鎖では、構成する糖質の種類が複数であることが多い。ヒトには9種類の糖があり、様々な結合様式が存在するため、例えば2個の糖から成る糖鎖では1,116の組合せが、3個の糖から成る糖鎖では119,736の組合せがそれぞれ考え得る。
このように、単糖の配列、結合様式・部位、鎖の長さ・分岐様式、全体の高次構造などの多様性から、糖鎖は核酸やタンパク質の構造と比べると非常に複雑な構造である。従って、その構造に由来する生物学的な情報は核酸やタンパク質に比べて多種多様である。
しかし糖鎖は、研究の重要性を認識されながらも、その構造の複雑さや多様性により、核酸やタンパク質に比べて研究の推進が遅れている状況にある。
我が国において政策的に進められてきた糖鎖研究の主なテーマは、図表3のとおりである。
このような支援を得た我が国の糖鎖研究の水準は、世界のトップレベルにあり、例えば、これまでに世界中で単離された110種類の糖鎖関連遺伝子のうち54種類は我が国で単離された。
経済産業省では、2001年度より「健康維持・増進のためのバイオテクノロジー基盤研究プログラム」の一つに、「糖鎖合成関連遺伝子ライブラリー構築」を開始し、2001年度に5億円の予算を計上した。ここでは、糖鎖の合成に必要な糖鎖合成関連酵素遺伝子を3年間で約300遺伝子クローニングすることや、これらの機能解析に基づく機能データベースを構築することを目標としている。
また理化学研究所では、1999年10月より、第二世代フロンティア研究システムの一つに「生体超分子システム研究」を設けた。この中で糖鎖統合生物学の研究として、免疫系や神経系の細胞における糖鎖認識の役割の解明や糖鎖関連遺伝子の発現機構の解析等を進めている。
現在、これらの研究の基盤技術となる糖鎖配列の自動解読装置や任意の糖鎖を自動合成する装置の開発が強く望まれている。しかし、構造が非常に複雑であることや細胞内にわずかしか存在しない糖鎖を抽出することが困難であることなどから、これらの開発には課題が多く残されている。

(三菱化学生命科学研究所永井克孝所長の資料をもとに科学技術動向研究センターで作成)
糖鎖研究は、遺伝子機能解析やタンパク質の構造・機能解析などを中心とするポストゲノム研究に続く、ポスト・ポストゲノム研究の一つとして考えられる(図表4)。

(科学技術動向研究センター作成)
今後の糖鎖研究の展望の例を図表5に示した。糖鎖研究はその内容により、「糖鎖構造の解明」、「糖鎖機能の解明」、「糖鎖の合成」、「糖鎖研究の医療分野への応用」に大きく分類できる。
これらの糖鎖研究は、他のライフサイエンス分野の研究と連携を図っていくことにより、基礎的な生命現象の解明や医療分野などへと発展することが期待される。

(三菱化学生命科学研究所永井克孝所長の資料をもとに科学技術動向研究センターで作成)
近年、ポストゲノム研究の課題として、遺伝子機能解析やタンパク質構造・機能解析などへの政策に重点が置かれている。糖鎖研究は、ポストゲノム研究が進みつつある現時点からポスト・ポストゲノム研究の一つとして進めていくべき重要な課題であることから、以下のような政策の推進が望まれる。
糖鎖研究は、糖鎖の構造の複雑さや多様性に由来する困難さを有している。そのため、分子生物学や細胞生物学など生物科学の領域のみならず、化学、物理学、工学、農学など、多岐にわたる領域の衆智を集めて総合的かつ戦略的に研究を進める必要がある。
我が国の糖鎖研究は世界のトップレベルにある。この水準を今後とも維持するだけでなく、生命現象に果たす糖鎖の役割を我が国が世界に先駆けて解明していくためには、国際的なレベルの人材を集結させるような研究体制を整備することが有効であると考えられる。糖鎖研究が発展することにより、ポストゲノム研究などへの相乗的な効果が期待できる。
今後の戦略的な研究推進の方向性のイメージは、図表5に示した「糖鎖研究の展望」のようになると考えられる。これらの目標に向けた推進戦略を立案していくことが期待される。
【謝辞】
本稿は、科学技術政策研究所において平成13年6月27日に行われた三菱化学生命科学研究所 永井克孝所長による講演会「第三の生命鎖糖鎖とポストゲノム解析」をもとにまとめたものである。本稿をまとめるにあたって、永井克孝所長には、ご指導をいただくとともに、 関連資料を快くご提供いただきました。文末にはなりますが、ここに深甚な感謝の意を表します。