STI Horizon

  • PDF:PDF版をダウンロード
  • DOI: 10.15108/stih.00007
  • 公開日: 2015.12.01
  • 著者: 伊藤裕子
  • 雑誌情報: STI Horizon, Vol.1, No.1
  • 発行者: 文部科学省科学技術・学術政策研究所 (NISTEP)

科学技術の社会実装・ 社会イノベーション展開の新潮流

脳科学研究の成果の社会実装注1
〜 発達障害の子どもと家族への早期支援システム 〜


国立精神・神経医療研究センター 精神保健研究所 児童・思春期精神保健研究部 神尾 陽子 部長

聞き手:科学技術動向研究センター 客員研究官 伊藤 裕子
(科学技術振興機構(JST) 社会技術研究開発センター(RISTEX)フェロー)

自閉症など発達障害を抱える子どもは、少なくとも子ども全体の数パーセント程度に存在すると想定される。乳幼児期からの支援はその後の発達や適応に良い影響を与えること分かっているため、できるだけ早期からの支援が重要である。そのためには、そのような子どもの発達の問題や家族の懸念を早く発見する必要があるが、現時点では就学前に専門的な支援につながらないケースが大半である。支援ニーズのある子どもと家族をできるだけ遅滞なく専門機関へ橋渡しし、支援サービスにつなげるためには、早期発見と早期支援のための地域システムの整備は必須であり、社会における喫緊の課題である。この課題の実現には、本人や親・家族以外に、自治体や地域の保健行政機関及び医療機関の専門家など様々なステークホルダーの関与が必要となるが、地域間で様々な違いがあり、技術的な困難に加えて問題意識の共有に困難がある。

この非常に難しい課題に挑戦し、研究成果の社会への実装の道筋をつけた、国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所 児童・思春期精神保健研究部の神尾陽子部長に、社会実装の御経験についてお話を伺った。神尾部長は、「発達障害の早期支援システム」を構築し、複数の自治体への導入を実現した。

神尾陽子 部長
神尾陽子 部長
神尾部長は研究代表者として、平成16-21年にJST-RISTEX戦略的創造研究推進事業(社会技術研究開発)「脳科学と社会」研究開発領域研究開発プログラム「脳科学と教育(タイプII)」:「社会性の発達メカニズムの解明自閉症スペクトラムと定型発達のコホート研究」、平成21-24年にJST-RISTEX研究開発成果実装支援プログラム:「発達障害の子どもと家族への早期支援システムの社会実装」を実施し、高い評価を受けた。

 

研究プロジェクト終了後の進捗

―平成24年の研究プロジェクト終了時の社会実装成果として、「全国12自治体で発達障害の早期支援システムが導入されたこと」、「母子健康手帳に発達障害の早期支援システムの項目が追加されたこと(図表1)」がありました。その後の進捗はいかがですか。

把握している限り、30近くの市町村で「発達障害の早期支援システム」が実装されている。システムを導入した先進的な市町村がリーダーとなり、近隣地域の取組を促したり、県や広域圏域が導入して市町村を指導したりするなど、地域に応じた方法で広がっている。

また平成27年度から始まった国民運動計画「健やか親子21(第2次)」注2の重点課題とされている育児支援についての新たな指標(子どもの社会性の発達過程を知っている親の割合)に、「発達障害の早期支援システム」で用いるスクリーニング項目の二つが取り上げられた。今後、子どもの社会性の発達過程の理解が一般社会に浸透すれば、前述の母子健康手帳の利活用が進み、要支援児のニーズに応えるための早期支援システムの実装化が一層進むことが期待できると考える。


図表1 平成24年改正の母子健康手帳の例
 図表1 平成24年改正の母子健康手帳の例

キャリアの中で気づいたこと

― いつ頃“社会実装”という視点を持ちましたか。

精神科で臨床をしていると、同じ診断がつく子どもでも、診療室で出会う子どもたちと、診療室の外で出会う子どもたちとでは随分違うことに気づいたのが、きっかけだった。行政の診療所児童精神科に勤務時代に地域の療育施設を巡回した経験、養護学校の校医をした経験、医療以外の大学の臨床心理系のクリニックなどの経験を通して、精神医学的な問題がありながらも診断や治療を受けることのない人々が多数いて、専門的医療機関に来たくても様々な理由でそれができない人もいるが、病院が提供する治療を望まない人や、地域のプライマリケア(区市町村の地域に密着した保健・医療・福祉をカバーする包括的な健康サービスを指し、保健所や開業医等が含まれる)の専門家たちが身近で時宜を得たアドバイスをすることで、地域生活がうまくいっている人もいる。

子どもの場合、早くから症状が出ていても親がそれと気づかない場合は何年もその状態のままで子どもの大変さが理解されない中で子どもは毎日を過ごすことになる。学校など集団社会の中で何らかのトラブルが生じ、親が診察に子どもを連れてきたときには子どもはそうした状態が当たり前のような慢性的状態になっていて、いわばゴムが伸びきった状態である。そして親もまた子どもの行動が理解できず、育児の失敗ではないかと何年も自分を責めて悩んでいる。もっと早くに専門的な対応ができていれば、と思うことが頻繁にあった。実際に、自閉症等発達障害のある子どもは後に精神疾患を発症するリスクや自殺のリスクが高いことが最近の研究でわ分かっている。

こうしたことから、発達障害の問題は、待つだけの専門医療機関に任せるのではなく、地域のプライマリケアのシステムの中で積極的に発見し、支援ネットワークにつなげるための、どの地域でも活用できるシステムが必要と考えた。

社会実装についての再認識

正直なところ、研究プロジェクトが終わってから、また最近になってようやくその意味するところに気づいて、「なるほど」とその都度発見した気になっている。プロジェクトを実施しているときは「社会実装のためのエビデンスを示そう」と思っていた。今、「発達障害の早期支援システム」について一定のエビデンスを示した後も、成功例だけでなく、ネガティヴな意見や現場からの想定外のリクエストが耳に入ってくることがある。エビデンスを示せばよいというものでもないという、研究成果を社会に実装することの難しさを改めて実感しているところである。実装を進めるには、もっと良い妥協点があったかもしれない、と考えているところである。全てが初めてのことで実装を通して学ぶことがとても面白く、発達障害の子どもと家族の身近な支援ができるような、社会実装と研究の両方の機能を有する新しいモデルをつくりたいと思っているところである。

意識して実施したこと

― 社会実装を進めるためにどのうな点を意識されしましたか。

地域の意向を尊重し、それぞれの意見をもんでいくというプロセスを強く意識した。ひっかかった場合に、エビデンスがあったとしても実装を進めることをその時点では諦めなくてはならないこともある。最終目標は同じだが、方法として最初は私たちの提案する方法ではない、別の方法を導入して発達障害支援システムの整備を目指した自治体が、その後、PDCAサイクルで検証した結果、やはり私たちの提案を導入するに至ったという例がある。たとえ時間がかかっても、みんながそれぞれのやり方で納得する進め方が、最終的に全員が満足するものとなる。

したがって、相手方の自治体には、“案”としてこちらからの提案は用意するが、判断は相手方に任せ、無理強いはしない。距離感が必要である。長期的な展望を示しつつ、「必要なときにはいつもサポートするよ」と手近にいることを示し、求められたときに常にコミットすることが大切と思う。

システムは導入すればよいというものではない

自治体へ新しいシステム、しかも支援のためのシステムの導入は簡単なことではない。システムを使いこなすには理解して使える人が複数いないといけないので、研修がセットで必要である。発達障害の専門家は全国的に不足しているため、地域内に専門家がいないところは、高度な専門家でなくても一定の知識とスキルを持った人材を育てることがまず必要である。専門的知識がない場合には、地域内の発達障害に関する実情の把握が不十分になりがちで、そもそもニーズの発見ができていないことがある。そうした地域の自己診断が十分でない自治体がシステムだけを導入しても、期待する効果は得られない。逆に問題が発生しても対応できないという心配が生じる。「システムを導入したい」から協力してほしい、という自治体のリクエストには、まず地域の実情を聞き、準備ができていない自治体にはまず発達障害に対応するための基礎的なトレーニングをしてもらうことを優先し、システム導入を急がないように注意している。

社会実装における国の役割

―社会実装のために国や研究機関は何をすべきでしょうか。

国の役割としては、社会実装で出た成果を積極的に政策に反映することである。公的資金を投入して、また多くのステークホルダーの協力のもと得られたエビデンスが、国民の健康に資すると示されたのであれば、バリアとなっている問題を行政的に解決し、実装が進むような様々な仕掛けを検討して、柔軟に政策に反映する努力が求められる。「政策に生かすぞ」と思ったら、日本の地域はそれぞれに特性があり、文化的な背景も異なることを考慮して、幾つかの地域をモデル地域として、全国展開に必要な地域特性に見合った適応を検討することが必要になるだろう。

社会実装における研究機関の役割

研究者個人では、自らの研究成果が実際の社会で役立つことがうれしくない人はいないだろう。しかしながら、そこまで研究者自身が自らコーディネートできるかというと、現在の研究者の置かれた環境を考えると、それを求めるのは難しいと言わざるを得ない。研究機関が、研究者の研究成果の社会実装までをサポートする機能を持つことが望まれる。研究実績を数値化して評価している現状では、研究者の社会実装活動は、当然、研究機関内で相応に評価されていないので、研究者が限られたエフォートをどれだけ社会実装に割くことが期待できるかは疑問である。例えば、“社会実装インパクトファクター”といった(公的な)新しい評価基準をつくるなど、社会実装の意義を正当に評価しうる指標をつくる必要があるのではないか。また、社会実装のモチベーションが研究者自身に高まったとしても、やはり技術的、時間的に限りがある。実装のコーディネータという専門性を有する人材を積極的に研究機関が養成し、雇用して活躍してもらえればよいと思う。そのコーディネータは、研究歴があり、世界的な視野を持っており、かつ地域とのコミュニケーションの高いスキルが必要である。

社会実装を目的とした研究開発助成に望むこと

社会実装は研究者にとっても新しい領域であるから、こういう経験の中でこれからの人材を育てることが重要と思う。日本の既存の研究費は研究者の雇用を余り想定していない印象がある。新しい領域の研究を併任・兼任として実施することは(業績がカウントされないので)エフォートにも限界があり、常勤研究員として専念できないと地域は信頼してくれない。継続的な社会実装や新しい領域の創出に、人材養成という視点で、更なる助成を期待する。

地域と研究機関との連携

英国では健康全般を目的とする地域の住民を巻き込んだ世界最大の出生コホート(「Avon両親・子ども縦断調査研究」(ALSPAC))が長年実施されている。その中には子どもが就学すると、地域の学校のデータも登録されるように倫理的な検討と仕組みを設け、研究がデザインされている。出生時からの前向きのデータ(健康人の健康状態や病気の発生までの過程を追うこと)を、子どもの情報が豊富な学校などの別の情報源から得られるデータとリンクすることで、データベースの信頼性が高まり、地域の人々に限定されない、世界的に人々の保健・医療の向上に役立つ研究成果が得られている。

ALSPACからの最近の研究で、子どもの頃に「虐待だけを受けた人」と「いじめだけを受けた人」を比較すると、「いじめだけを受けた人」の方が、成人後にうつ病発症リスクが高いことが分かった。

学校での子どもの心の健康の問題が課題となっている日本においても学校のデータを含めた地域コホートが実施できれば、次世代の育成に貢献できると思う。

―社会実装を目指す若手へのメッセージをお願いします。

児童精神科医の立場からは、地域のシステムをつくるという社会実装をけん引する力を身につけてほしい。児童精神科では、大学のポストが少ないのでほとんどの人が臨床家になる。診察室内で多数の患者の診察に忙殺されているのを知っていてあえて言うのだが、それでも地域でプライマリケアや多領域の専門機関を含む縦横のネットワークをつくることにも時間を割き、将来、地域のリーダーの一人となってどんどん新しいニーズにあった地域サービスを実装する人になってほしい。

昨年、若手の児童精神科医向けのセミナーで、良い臨床家を目指す若い人たちに「研究に距離をおいた臨床はありえない、優れた臨床家には研究マインドが必要」、「地域のマクロ的な見方、予防ということに貢献することが必要」という話をしたが、既にそういう方向を自分の中で育てている人が何人かいるのに驚きもし、うれしくも思った。時代のニーズに若い人は敏感なのだろう。そうした人々が力を発揮できるよう、教育機関や研究機関、医療機関はサポートしていく責任があるだろう。若い人が意欲を失ってしまわないように、正当な評価と学習の機会を与え、新しいキャリアパスを用意する必要があるだろう。


注1 社会実装:得られた研究成果を社会問題解決のために応用、展開すること。
注2 健やか親子21: 平成13年から開始された、母子の健康水準を向上させるための様々な取組を国民全てで推進する国民運動計画である。平成27年度からは、現状の課題を踏まえ、新たな計画が10年間(平成36年度まで)実施されている。

■ 参考情報

tail

本記事に対するご意見ご感想は mailto までお寄せください.